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プラトン『パイドン』を読む~未来永劫、言葉を愛せ~


魂の不死を論証する

死刑執行日の、幸せそうなソクラテス

『パイドン』の副題は「魂について」である。

ソクラテスは紀元前399年に、「青年を腐敗させた罪」によって死刑が決定した。パイドン、というのは、ソクラテスの弟子のうちの一人で、死刑が執行される正にその日にソクラテスの最期を見届けた人である。物語はパイドンが、どんなことがソクラテスとその弟子たちによって議論されたかを伝達する、という形式で進んでいく。

ところで、あなたは「死」というのをどうとらえているだろうか。怖いものだろうか。悲しいものだろうか。あるいは、他の受け止め方があるかも知れない。

この記事の筆者は、偶然に、この本を読んでいた時に親しい人の死別を経験した。恥ずかしながら、わんわんと泣いたのだ。その人はカウンセラーの人で、私の悩みを私よりも真剣に聞いてくれた人だった。

しかし、ソクラテスが傍にいたならきっと、こう言うに違いない・・・「君、みっともないではないか。死ぬことがその親しい人にとって幸せであることに気づかずそんな姿を見せるだなんて。」

というのも、死ぬことは、ソクラテスにとっては清浄で幸福なことなのだ。彼曰く、死とは、魂の、肉体という墓場からの分離であり、魂そのものになることだ。空腹にも睡眠欲にも性衝動にも縛られない魂は、死んで初めて完全な知恵の獲得が可能になる。(ソクラテスにとっては知恵の獲得こそが人生の目的であった。というのも「哲学」ということはphillosophia = phillo(愛する)+ sophy(知恵)、つまり知恵を愛し求めることであるから。哲学者であるソクラテスは知恵を探求する。)

しかし、そんなことを語っていたソクラテスに、弟子のケベスが食って掛かった。

ソクラテス、他のことは見事に語られたと私には思われます。しかし、魂について語られたことは人々に多くの疑念を呼び起こすものです。かれらはこう恐れているのです。魂は肉体から分離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。それは、人が死んだその日に、肉体から離されるとすぐに、滅びてなくなってしまうのではないか。そして、息か煙のように外に出て行き、散り散りになって飛び去ってゆき、もはやどこにも存在しないのではないか、と。

プラトン;岩田靖夫.パイドン-魂の不死について(岩波文庫)(p.39).株式会社岩波書店.Kindle版.

魂は実際のところどのようなものなのだろう。それは、ケベスが心配するように、死ねば息か煙のように、たちまち散りぢりになってしまうのだろうか・・・

そこで、ソクラテスとその弟子たちは魂の不死をめぐって徹底的に議論を交わしていく。

「3」が、奇数でありつつ、同時に偶数であることはない

『パイドン』の中で、ソクラテスは少なくとも3通りのアプローチで魂の不死を証明する。(「少なくとも」というのは、数え方によっては4つといえるかもしれないからだ。)

このように複数のアプローチをとったのは、魂の不死を証明する、という、テーマの重大性による。数学の問題で一つの解き方に満足せず、色々なルートで答えの正しさを確かめるように、ソクラテスも様々な角度で検討を加えていくのだ。

さて、この記事ですべてのアプローチをとるのはとてもではないけれど出来ないので、ここでは、『パイドン』のクライマックスともいえるパート、最終証明の証明方法だけを、かいつまんで紹介したい。この証明を「実在による証明」ととりあえず名付けておこう。

実在による証明で押さえておきたいのは、矛盾律の考え方だ。

「君の言っていることは、さっき言っていたことと矛盾しているよ」

という風に日常でも使われる言葉であり、大体、「論理的におかしい」ということを意味している。しかし、論理学でいう「矛盾」の典型的な意味はもっと限定されていて、「Aであり、同時に、Aではない」という形の主張が矛盾と言われている。

このAには何が入っても論理的には誤りになることが分かっている。「私は大人であり、同時に、大人ではない」という形の主張は矛盾であり、いつも誤りなのだ。ゆえに、矛盾は常に否定される。「(Aであり、同時に、Aではない)ということはない」のである。この、矛盾は常に否定される、ことを矛盾律と呼んでいるわけだ。

さて、この矛盾律ということを念頭に置いて先に進もう。問題は、「魂が不死である」ことの証明である。

まず、①魂は「生きる」ことに常に結びついていることがソクラテスとその弟子たちとの間で容認される。「身体の内に魂が生ずると生になるのである」ということだ。

また、②生きることの反対、すなわち、否定は何か、ということを考えると、それは死であろう。生⇔死である。死は、生ではない。

そして、①と②を合わせて考えてみよう。魂は生と必然的に結びついており、常に離れることはない。魂が生ずるところに生きることも生ずるのだ。その魂に死が近づいてきたとき、例えば現にソクラテスに死刑が執行されるとき、魂が生でありながら、同時に死である、ということはないのである・・・とソクラテスは語る。

例えば、「3」という数字を考えてみよう。「3」という数字は「3」である限り、常に奇数である。しかし、「3」に対して偶数性が接近してきたとき、「3」が偶数であることを受け入れながら、そのまま「3」で居続けることはできるだろうか・・・

それは、先ほど矛盾律でみたように出来ないのだ。奇数でありながら同時に偶数である、というのは、奇数でありながら同時に奇数ではない、と言うのと同じだ。これは矛盾である。同様に、生でありながら同時に死である、という言論も必ず否定される。

偶数性が接近してきたとき、「3」は滅亡するか、あるいは、立ち去るかして、あえて偶数性を受け入れようとはしない。その場所を譲るのである。このように偶数性を受け入れないものは非偶数性である、と言われるだろう。

ならば、同じように、死が接近してきたときに、あえて死を受け入れない魂は「不死」と呼ばれるべきではないか。

ここで、求められている証明が完了した。すなわち、魂は不死である、と。

死ぬことは善いことだ、しかし、自ら獲得してはいけない

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この記事では随分と証明を簡略化した。しかし、私としては、『パイドン』という物語の雰囲気だけでも伝われば、この記事は成功だと思っている。もっと、ちゃんと中身を知りたいという読者はぜひ購読することを勧める。

さて、このように魂の不死を証明したソクラテスは話を続ける。魂が不死であるならば、同時に、魂は不滅であるとも言えるだろう。いやしくも、不死であるものが永遠に存続する以上、そのものは不滅であるというより他はない。

だから、私たちは上機嫌で、安心しなければならない。魂は必然的に、死ぬことはない。いつまでも、永遠にあり続けるのだ。人間は死ぬとき、肉体という邪魔者から浄化されて、魂は魂そのものになり、旅を続ける。ハデス(死後の世界)には、この世とは違う、善い神々と善い人々とがいるに違いない。そういった希望をもっているのに、どうして悲しむことがあるだろうか。死ぬということは、浄化であり、魂の肉体からの分離であるからには、どんなひとにとっても善いことなのだ。

そう考えているからこそ、ソクラテスは意味深なことを言う。「できるだけ早く私の後を追いなさい」と。

しかし、これは自分自身に暴力を加えよ、ということではない。

だが、おそらく、君には驚くべきことと思われるだろう。人間にとって生きることよりは死ぬことの方がより善いということだけが、他のすべてのこととは違って、例外なしに無条件的であり、他のものごとの場合のように、ある時ある人には、という条件がけっして付かない、ということは。それだのに、死ぬことの方がより善い人間たちにとって、自分自身にその善いことをなすのは不敬な行為であり、善をなしてくれる他者を待たなければならない、というのは、これもまた、おそらく、君には驚くべきことに思われるだろうね

プラトン;岩田靖夫.パイドン-魂の不死について(岩波文庫)(p.22).株式会社岩波書店.Kindle版.

この不思議とも思える話にソクラテスは説明を与える…死ぬことは善いことである。しかし、その善いことを自分で獲得してはいけない。それは、人間は神々の所有物(奴隷)の一つであるからだ…もし君の奴隷が、君の意思とは関係なく自ら命を絶ったとしたら、何か処罰の手段があるなら処罰するだろう、と。

おそらく、現にわれわれの眼前にあるような何らかの必然を神が送りたもうまでは、自分自身を殺してはいけない、ということは、根拠のないことではない

プラトン;岩田靖夫.パイドン-魂の不死について(岩波文庫)(p.23).株式会社岩波書店.Kindle版.

ゆえに、死ぬことは善いことであるが、その善さを自分で獲得してはいけない。死ぬことの必然が送られてくるまでは、私たちは生きなければならないのだ。

未来永劫、言葉を愛せ

このようにして、ソクラテスは魂の不死を証明して、また、死ぬことの必然性を喜んで受け止めたわけだが、哲学者ソクラテスは弟子たちに戒めの言葉を残す。それは、言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。

それでは、パイドン、この心の有り様は嘆かわしいものではなかろうか。なにか真実で確かな言論が存在し、それを理解することもできるのに、同じ言論でありながら、時には真実であるように思えたり時にはそうは思えなかったりするような、なにかそんな風な言論にたまたま出くわしたがために、自分自身や自分自身の心得のなさに責任を帰さずに、ついには苦しみのあまり責任を自分自身から言論へと押しやって喜んでいるとすれば。そうなってしまった者は言論を憎み罵りつづけながらその後の人生を過ごすことになり、本当に存在するものの真理や知識を奪われてしまうことになるだろう」

プラトン;岩田靖夫.パイドン-魂の不死について(岩波文庫)(pp.90-91).株式会社岩波書店.Kindle版.

ソクラテスは魂の不死を証明するにあたって必然性をもっとも大切にした。その必然性とは今で言う論理学であり、この『パイドン』という物語は驚くほど緻密に、現代の命題論理の必然性を常に確認しながら議論を展開していく。

ここで気づいておきたいことは、これは私見にはなるが、私たちは言論という「道具」を使って生きているのではなく、言論がそのまま生きるということなのだ、ということである。私たちは言論、言い換えれば、言葉を通してしか物事を考えることができない。そして、何かを考えずによい人生を歩むこともできない。「何も考えるな」といった時点で、私たちは何かを考えてしまう。何かしらの、言葉が心の中でつぶやかれてしまう。

「水かなにかそのようなものの中に太陽が映った姿を見るように」(p.111)知識を探求しようとソクラテスは言う。ここで太陽というのは世界そのものの、水は言論の比喩である。私たちは太陽そのものを見ることはできない(そうすると盲目になってしまう)。これは、私たちが、言論を通してしか生きられないことを意図しているものだと、私は理解した。

私たちの魂はどうやら永遠、未来永劫にあるらしい。というのも、魂は不死であるのだから。そしてまさに、魂が不死であることを探求できたのは、言論を、とりわけ、正しい言論をソクラテスが愛したからに他ならない。

これまでの議論を踏まえると、ソクラテスはきっと、次のようなことを言いたいのだと、私は考えた。すなわち、

「魂を配慮せよ。未来永劫、言葉を愛せ」

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