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人間とは精神である

今日の一文は…

キルケゴールの『死に至る病』の冒頭から。

人間とは精神である。では、精神とは何か? 精神とは自己である。では、自己とは何か? 自己とは関係であるが、関係がそれ自身に関係する関係である。言い換えれば、自己は、関係がそれ自身に関係するという関係を、わが身に引き受けているのである。だから、自己とは、関係それ自体なのではなく、関係がそれ自身に関係することなのだ。人間は、無限性と有限性の、時間的なものと永遠なものの、自由と必然性の総合である。早い話が、人間とは総合なのである。総合とは、二つのもののあいだの関係のことだ。人間は、このように捉えられるかぎりでは、いまだ自己ではないわけである。

キルケゴール著『死に至る病』

「うん、なんのこっちゃ。」

というのが初めて読んだときの感想だ。そしてその感想はいまでもあまり変わっていない。

この文章が分からなくて、「ああ、自分は哲学に向いていないのかな」とも思った。別にキルケゴール=哲学ではないのだけど、分からなさの衝撃でプチパニックになったのだろう。

しかし、2017年になって鈴木祐丞ゆうすけの比較的新しい訳書が出てそれを読んでいたら次の解説に出会った。

 キェルケゴールの著作の書き方は、ひどく直感的である。あるとき、書きたいことが頭の中におぼろげに形を取り始める。それを日記などに簡潔に書きとめると、すぐに執筆に取りかかる。著作全体としての体系性や整合性などについてはほとんどお構いなしにひたすら筆を走らせ、一通り書き上げてしまう。・・・
 「キェルケゴールほどの名高い思想家が……」という幻想を抱いて彼の著作に触れる人は多い。かくいう訳者もかつてはその一人だった。キェルケゴールほどの名高い思想家は計算し尽くされた著作を書き上げたはずであり、だから彼の著作に多少分かりにくいと思われるところがあるとしても、それはあくまで読者の読解力のせいであり、キェルケゴールに非はないのだ、と。
 だが、彼の著作やその原稿、また日記をある程度読みこなしてみると、前述のような事情がだんだん分かってきて、彼の著作の読解に苦戦するとしても、多くの場合じつは非は自分にはなかったのだということを知る。彼の著作は体系性や整合性に欠ける。話はたびたび本筋からそれるし、用いられる概念の規定が曖昧なままであることも多い。さらにいえば、彼が好んで使う比喩的表現が的外れであることも、ちょくちょくある。本書『死に至る病』もこのそしりを免れない。

「だよね!」

と、つい、独りごとを言ってしまった記憶がある。

心が気楽になると、もしかしたら、キルケゴールは「人間はアウフヘーベンなんだ」と言いたかったのだろうと理解し始めた。

アウフヘーベンは、平たく言えば矛盾葛藤を乗り越えることだと思っている。

「無限性と有限性の、時間的なものと永遠なものの、自由と必然性の総合」と言っている。相矛盾するものを揚棄ようきするのが人間であると、言いたかったんじゃないかな。

つまり、「総合」を「アウフヘーベン」と言い換えるのだ。

この理解があっているかどうかはわからないけれど。

ただ、間違っているかもしれないけれど、彼とつながりをもつことができた、分かりあえたような「気がする」というのは、それでもうれしいことだ。

今日はそんな、ともすると意味不明な哲学者、思想家の書籍からの一文をお届け。

それでは本日も一語一咲いちごいちえでありますよう。

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