見出し画像

つら(直接的に言わないことは思いやりではないだろう)

クリニックでのコミュニケーションを改善するために発達特性の話をしているのに、それを「承認欲求の高さ」と取られてしまったら、もう打つ手無しなんだけどねえ。

AS者(である私)にとってありがたい「はっきりした言い方」を、どうも「単一の簡単な動詞で話すこと」みたいに誤解されている気がする。

そうではなく、「文脈が既に定まっている専門的な用語で喋ってほしい」ということなんだけどね。その場ではわからないけど、家に帰って調べれば誤解することは少ないし、誤解してもその後の擦り合わせが容易だし。

なぜそれを怠るのか。理解ができない。思いやり?私は(それになんの価値があるのか理解に苦しむ)「思いやり」のために、めちゃくちゃな労苦を強いられてきたし、今も強いられているのか?

感情への配慮なんぞいらんから、特性に配慮してくれよ、なぁ?

「直接的に言うほうも辛いんだよ」なんぞ知ったことではないんだよな。それは私とのコミュニケーションからの逃避とどう違うのか。目の前にいる私と向き合ってくれよ、なぁ?

……怒った怒った。クールダウンしてから、伝えることをまとめよう。少し怒りを見せることは必要かもしれないけど、必要以上に感情が昂らないようにしたい。

それはなぜかと言えば、(精神的な負荷を減らすためではなく)建設的な訴えが「衝動性」によるものと解釈され、その内容の価値を切り下げられることを防ぐため。


それから、結論から伝えるようにしよう。「これから私が話すことを、このような文脈の下、このような意味で聞け」という指示の意味合いがあるから、誤解をなくすために結論から伝えるのはきっと大切。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?