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4/28朝 雑感(他者としての主治医を知ること、とか)


・なんで主治医は、森田療法のタームを使って説明してくれなかったんだろう。治療構造的に知られてはマズい情報があったのかな。それともシンプルに知識不足を慮ってくれていた?はたまた、型にはまった理解に辿り着くのを防ごうとしていた?いずれにせよ、ちょっと腑に落ちず。(4/27時点)

→(Copilotと対話後)
・「とらわれ」や「はからい」と、自閉特性の「あるがまま」(=特定パターンやルーチンへのこだわり)がよく似ているからじゃないか。医師はそれを見極めようとしていたのではないか、と思い当たった。私が自然な形で学びを得られるように、あえて助言を避けてくれていた、のかもしれない。

・主治医の他者性を知るのが怖かったから、他の知識は学ぼうとしてきたのに、森田療法だけをきれいに避けてきた。他者と向き合う取り組みの中で、そのことに気づかざるを得なくなった。

・怒りや悲しみは、消そうとせずにただ見つめていると、勝手に収束していくようになっているのかもしれない。

・鬱が重かった時期に学んだことに戻ってきた。希死念慮や鬱に対してうまく対処しようとせず、ただそれを口に出し自分の耳で聞くことで、なぜかわからないけど勝手に収まってきて、動きたいと思えるようになった経験はある。意識していなかったけど、森田療法的だったのかもしれない。


・他者について、自分の延長としてではなく、自分とは(程度の差こそあれ)猛烈に異なる他者として知る経験を積めるといいかもしれない。
(しかし私が今真に取り組むべきはこれではない気がするから、「とらわれ」ずにやるべきことをやる。…私の「生の欲望」とはなんなんだろう。)

・他者を知るためには、その人の内面をあり合わせの考え方で理解しようとするのではなくて、その人の内面を形作っていそうな知識や経験を摂取していくのが良いのかもしれない(って、これも「とらわれ」かな)。
ADHD的な要素によって「生の欲望」が移ろいやすいとしたら、それについてどう考えればいいんだろう

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