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「愛せる街に住んだほうがいいよ」

4年前、「愛せる街に住んだほうがいいよ」という母の言葉がきっかけで、川越に住むことになった。

夫の転職に合わせて、通勤の便利な場所に住もうと考えていた時には、川越市は候補の3番手くらいだった。住んでみたいのは川越だったものの、夫の通勤利便性は合格でも、私の職場には少し遠くなってしまうことがネックとなっていた。そして、住んでみたいエリアは賃貸の供給が少なめで、家賃と物件のクオリティとのバランスが微妙なことも気になる点だった。だから、他に検討していた高崎線沿いのエリアで家探しをしようと、一度は決めていた。

高崎線某駅の街はベッドタウンという雰囲気で、駅徒歩圏内でも戸建のほうが目立つ場所だった。興味を引かれる店が多いわけでもなく、シンプルに住むところという街だ。街に面白みがあるわけではないけれど、お互いの通勤が負担にならない中間地点で、シャーメゾンなどの綺麗な賃貸も無理なく住めるような家賃。保育園も激戦区というわけではなく、入園するまでのつなぎの期間に通える認可外もあった。条件面だけを考えれば、もうここでいいよね、という街だった。けれど、どこかで「妥協したな…」という気持ちが拭えず、楽しく暮らすイメージも描きにくかった。

そして「高崎線〇〇駅の辺りで探そうと思って」と、実家の母に話をした際に言われたのが、冒頭の言葉だ。「川越がいいと思ったなら川越で探しなよ」という言葉が続いた。

(ちなみに母に相談していたのは、この頃は子どもが1歳で母に応援を頼む機会が何かとあった為。実家のある大宮からのアクセスも重視していた)

愛せる街、という部分を考えてみると、埼玉県内では川越が現実的だった。大宮や北浦和の雰囲気も好きなのだけど、夫の職場が遠くなるし、家賃も高い。それならやはり、川越にしよう。そう決めて不動産屋に行くと、住みたいと思っていた蔵の街エリアにちょうど物件があった。希望より狭くて築年数も経っていたけれど、好きな街の好きな場所なのだからと、条件は譲って決めた。

この時の決断が、その後の生活満足度を決定づけることになった。周囲は好きな景観、美味しい店だらけ。子どもとあちこち散歩するうちに、顔なじみになったお店がいくつも出来た。つなぎで利用した認可外の園は当たりの園、その後通った小規模園もとても温かな保育をしていて、ママ友との交流も続いている。小規模卒園後の幼稚園も、わが家の教育方針に合ったのびのびした園で、気の合うママ友が沢山いる。

唯一の不満は、賃貸アパートが使いにくい間取りで夏暑く冬寒いことだったけれど、この不満のおかげでマンション購入につながった。断熱について詳しくなったし、マンション購入まで右往左往したおかげで住宅に関する知見も得ることができた。

愛せる街に住んだほうがいいというのは本当だった。どこかの街を好きになるというのは、環境や、周辺の店や、道行く人の雰囲気、住民の気質など、何かしら自分たちに合っていて好ましい部分があるということなのだ。わが家が保育や幼児教育の面で満足度が上がったのも、環境や住民の気質があればこそという面がかなりある。好き嫌いと実利というのは、意外と連関している。

「好きだな」「好きじゃないな」という感覚は、きっと無視しないほうがいい。その他の条件は、好きを軸に取捨選択ができるし、「ここに住む」という目的のために条件を寄せていける。好き嫌いは感情だから、合理性だけではねじ伏せられない。だから、愛せる街に住んだほうがいいのだと思う。

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