歴史思考から考える学校教育(その4)

歴史思考を学校教育でできないのか?という疑問をその2/その3で書いていきました。

僕の考える主な原因は二つ
①受験教育の弊害
②教員忙しすぎる問題

大学受験で合格することを最優先に勉強し、歴史を暗記としてとらえてしまうこと。教員の職場環境では歴史と現代社会とのつながりを切り取り、授業に落とし込んで行くことが難しいと書いてきました。

ただ、今後生きていくうえで必要になる力は暗記ではなく、自分を俯瞰していく能力だと僕は思っています。
歴史という大局観から自分を見つめなおす力があれば、自分で自分の道を切り開く必要があるこの社会で大きな助けになると思います。

では、どこでその力を養うのか。その鍵は国語にあると思います。
僕は大学時代に国語の教育免許を取得しました。しかしながら、なぜ国語を学ぶのか答えを見つけられずにいました。まだ答えにたどり着いたわけではないですが、少なからずこの力を育成する学問なんだっと思ったものがあります。それは、自分を見つめなおす能力です。
 

 国語は主に「話す」「聞く」「書く」「読む」の4つの能力を育成する教科だと指導要領には記載されています。
 普通に日本で生きていれば、「話す」「聞く」は会話の中でやっていくし、LINEで毎日読み書きをしているじゃん。中学・高校の僕はそんな風におもっていました。そのため、正直、小説って読む意味ある?古典って授業でやる意味ある?と思っていました。物語は好きだったので、国語は嫌いではなかったですが学ぶ意味はあまりわかっていなかったです。特に短歌・俳句・詩は暗記だけするものと思ってましたね、、、
 

 でも、『歴史思考』を読んでみて、国語に近いものを感じました。『歴史思考』では、歴史上の人物や社会を知ると今の自分を客観的に見れる(メタ認知)できると言っています。
 小説は、空想の世界から登場人物の感情を読み取ります。登場人物の感情を知るためには、空想の世界背景を知り、登場人物に入り込むことが必要です。コテンラジオが社会構造から入り、偉人の気持ちを深堀していくのと同じプロセスなんです。フィクションとノンフィクションという違いはあってもの同じプロセスを辿るのだから、国語を使って自分を見つめなおすことはできるはずです。むしろ、そのために国語を学んでいく必要があるのじゃないかと思っています。
 佐渡島傭平さんの著書『観察力の鍛え方』では、分人思考という考え方が取り上げられています。
※平野啓一郎さんの『私とは何か』から引用したもの考え方らしいので、そちらもちゃんと読もうと思います。
そこでは「私というものは存在せず、他者との関係によって私が形作られる」と書かれています。また、「私というのはドーナツの中心部分(空間)であり、他者というドーナツ部分(実態)があることで認識できる」とのことです。僕は会う人によって、色々モードが変わる感覚があるのでこの考え方がすんなり腹落ちしました。本当の自分というの存在せず、いろんなモードの自分が他社によって引き出されてるだけなんだと感じました。
 何が言いたいかというと、自分を知るためには、自分を形作る輪郭を知る方が良いということです。さらにその輪郭は、形がはっきりしたものではないということ。歴史を知ると輪郭である社会は絶対的なものでないことが分かってきます。さらに小説の世界に飛べば、もっと違う世界を追体験できます。そうやっていろんな枠組みに自分を置いてみて、自分を振り返っていくことが、これから生きるうえで必要な力なんじゃないかと思うんです。
 現代だけでなく、歴史や小説といった異なる世界を輪郭として自分を形作ると新たな自分を見つけられるかなと思います。
 
 
 


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