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冷たい想像、赤いランプ

ひと月ほど前、家の近くの交差点で事故があった。車とバイクがぶつかり、救急車が来て警察が現場検証するような事故だった。

僕はランニング帰りにその場を通った。最近は週に何度か、仕事終わりに帰宅してからご飯を食べる前に走っていて、その日も夜道を家に向かって帰っていたのだ。救急車と警察車両の赤いテールランプに照らされたいつもの道は、妙に現実味がなかった。

交差点の傍らには青いバイクが横たわり、前面のガラスは粉々になっていた。救急車はちょうど発車するところで、警察と現場に居合わせた人が残った交差点はすぐに静かになった。

翌朝出かける時には事故の形跡は何も残っていなかった。
そのせいで、いつもの交差点が前の晩に事故現場になっていたことには、ますます実感が持てなかった。


事故現場を見てから、多くの人がそうするように、自分が巻き込まれていたかもしれないという平凡な想像をした。

あの日は仕事が少し伸びてランニングを始めるのが遅れた。そして連休中に運動をしていなかったせいで走るペースが上がらず、ランニングを早めに切り上げて歩いていた。

だから、仕事が時間通りに終わっていたら、連休中に運動を欠かさずにいていつものペースで走っていたら、と想像をした。
前日の残りのおかずを食べながら、このご飯を食べているのは自分が事故に合わなかったからで、もっと感謝してもいいはずだと思った。

そして、事故で人が死んだかもしれないのに自分のことしか想像できないことが、心底嫌になった。自分は死にたくないのに、人が死んだかもしれないことには無頓着なことに気づいて恐ろしく思った。

たとえ目の前で、どれだけ近しい人に起こったとしても、他人に起こった出来事は自分は引き受けられない。自分のことを大切に思うのなら、事故に遭わなくてよかったと思う部分は誰にでも生まれてしまう。
でもそのことは同時に、他者よりも自己のことをすぐに考えてしまう醜さも映し出している。


色々な不幸な出来事にいちいち心を痛めていては生活は成り立たなくなってしまう。けれど、自分の心を守ろうとする感情の、その冷たさを時々確かめておかないと、その冷たさでいつか人を傷つけるのだろうと思った。

他人に起きた出来事全てに共感などできない心の冷たさに、少しの感謝と消えることない恐れを。

素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。