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考えすぎと俯瞰のリズム

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へんなものを見つけて考えて遠くから眺める 整合性と破壊、偏愛と狂気/冷静な神経質
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#日記

夢を叶えられない「好き」たちへ

中学の同級生の話をしたい。サッカーを愛する人の話だ。 彼は隣の小学校に通っていた。お互い少年団でサッカーをしていたので、よく練習試合で対戦していた。左利きでボール運びが上手く、キックも強烈な選手だった。ディフェンスの選手だった僕は直接勝負することも度々あったが、けちょんけちょんにされていた印象しかない。生来の負けず嫌いなので点数を決められる度に目を真っ赤にして、次こそは勝ってやると意気込んでいた。当時の自分には申し訳ないが、正直なところほとんどやられっぱなしだったと思う。

ナンデナンデ星の住人たち

幼いころ、毎晩父の帰りを待って一緒にお風呂に入っていた。仕事場に電話をして、お風呂に入りたいから早く帰ってきてと急かしていた。 帰ってくるとすぐに浴室に入り、体を洗って湯船につかる。自分よりはるかに体の大きい父が湯船に入って、お風呂のお湯があふれる様子を見てケタケタと笑っていた。 お風呂では父にたくさんの質問をした。 ものはなんで落ちるの?なんで水が鼻に入るとツーンとするの?なんで血は固まるの?なんで水はあっためると消えるの?人はなんで生きているの? 父は自分の知識

なめらかな曲線が美しい理由を考える

やっぱりデジタルってアナログにかなわないな、と思う瞬間があります。 そう書き出してから、デジタルとアナログの辞書の定義が気になって調べてみたのですが、なんとなく納得できなかったので自分なりに定義してみました。 デジタル 連続的な物事をある単位で区切って表現すること アナログ 連続的な物事を連続的なまま表現すること これがいまのところ自分が納得できる定義です。 なんだか変なはじまり方になってしまったので、もう一度最初からやり直します。 やっぱりデジタルってアナログ

民衆の敵とは誰なのか

Bunkamuraシアターコクーンで上演中の『民衆の敵』を見ました。以下ネタバレを多く含みますが、「近代演劇の父」と呼ばれるイプセンの作品なので、ネタバレ程度ではこの戯曲の面白さは損なわれないだろう、と勝手に解釈して、がんがんとネタバレも交えて書こうと思います。 舞台のいいところは生身の人間が目の前で演じるところにあると思っているので、「噓から出たまこと」という言葉があるように虚構であると同時にその世界を現実に体験でき、youtubeで音楽が無料でいつでも聞ける時代になって

うしろのワイパー

ワイパーはいつでも、車のガラスからしずくを払ってくれる。 一定のリズムで淡々と自分の仕事をこなすワイパーは、毎日毎日会社に行って指示を受けて働く人間のようだな、と久しぶり雨が降った日に、その中をゆく車を眺めているときに思った。 幼いころ、日曜日になると蕎麦屋に出かけるのが我が家の定番だった。 蕎麦屋に向かう車では、前方には大人が、後方に子供が座った。 日曜日は特別朝の遅かった我が家では、15時まえに蕎麦屋に向かうのがたいていだった。 毎週通っていたから、もちろん雨の

からまり、そして、ほどき

どういうわけか、絡まったものを見るのが好きだ。 あまったたこ糸、教室の大縄、イヤホンのケーブル。 放っておくといつの間にか絡まるあいつらのことだ。誰かが夜寝ている間にこっそりぐちゃぐちゃにしてるんじゃないかというほどあいつらは絡まる。絡まろう、という意思が見える。 あいつらを好きだといったが、正確にいうと、絡まったあいつらをほどくのが好きだ。ぐちゃぐちゃであればあるほどいい。やりがいというものが生まれる。 端と端を探す。一度離れてみて大体の絡まり方を見る。ほぐし

女のように走る男

女のように走る男を見た。 いや、正確にいうのならば「見た目はおじさんと呼ばれる風貌だが、(軽くこぶしを握った状態でわきを締めつつも、ひじから先を左右に振りながら走る)いわゆる女の子走りをしている人」を見た。 なぜその人だけを覚えているのだろうか、と僕は考える。小学校の近くで交通整理をしていた人、駅前であいさつ運動をしている人、電車で隣に座った人のことも覚えているけれど、印象には残っていない。何が特別だったのだろうか。 違和感と言ってしまえばそれまでだ。 性別が男性・女性

ピーマン

嫌いな食べ物代表の、ピーマン。 においや苦みが苦手という人、かなりいます。 おとなでも嫌いという人、結構みます。 さて、嫌われ者のピーマンについて。 実はピーマンアレルギーというのもあったりします。 ピーマンを食べたくても食べられない、という人がいます。 好き嫌いとアレルギーは明確に違います。 体に取り込みたいと思うかどうかが好き嫌い。 その意思に関係なく体が拒否するのがアレルギーです。 それを混同している人、わりといます。たくさんいます。 好き嫌いを

美しいストーリーに食い殺される

思い出を美化してしまう。そして、その思い出に苦しめられる。 苦しい思い出を消化するために、ときにその思い出を美化してしまう。 苦しい思い出を消化するため、は「乗り越えた自分」を肯定するため、と言い換えてもいい。下積みや修行、挫折の経験が成功につながっている、というのは耳触りがいい。つらければつらいほどそれを乗り越える感動は大きい。美しいストーリーは語りたくなり、何度も何度も繰り返し語ってしまう。 そのせいで現実がうまく見られなくなることがある。 つらかったことを乗り越えた

都会の呼吸

最近更新できていなかったけれど、こんな風にぽつぽつとあげるだけえらい、と自分を励まして書いています。 ―――――――――――――――――――― 今年の花粉症はなんだかおとなしい。 確かに目はかゆくて鼻水は出るけれど、昨年までのこの時期と比べると、びっくりするくらい鼻も目も穏やかだ。毎年春以外も鼻をかみながら過ごしているくらいのひどい花粉症持ちなので、今年は肩透かしを食らったような気分だ。 どうした花粉。いないといないでさみしいとかは全くないけど気にはなるぞ。 スギ、

見えざる奔流

あの朝、駅のホームから改札口へとつながる階段を下りていく人々の姿が、排水溝に吸い込まれる水にしか見えなかった。 人々の群れは、ただ物体の集まりでしかなく、血の通っている動物、ましてや意思を持つ人間とは思えなかった。それぞれにどれだけ濃密な人生が詰まっていようとも、あの流れには逆らおうとするものもないし、立ち止まることも許されていなかった。仮に自分があの中にいたとして、歩き方こそ違えど同じ動きをしていた。そういう意味で、彼らにとっては自分の姿も電車に吸い込まれる水でしかなかっ