見出し画像

「分かりあえない人」こそが、学びや気づきを与えてくれる

20:他者の顔

レヴィナスの言う「他者」とは、文字通りの「自分以外の人」という意味では無く、どちらかというと「わかりあえない者、理解できない者」といった意味です。

哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みですが、では古代ギリシャの時代以来、膨大なエネルギーをかけて考察が積み重ねられてきたにもかかわらず、未だに「これが決定打!」とされるものが確定されないのはなぜなのか。
答えは明白です。ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとってのそれではないからです。
連綿と「提案」と「否定」が続く、永遠に「完全な合意」に至らないかのように思える、この営みが「わかりあえない存在」としての「他者」の存在につながったのでしょう。
それでもレヴィナス「他者」が重要だと言います。それは、「他者とは”気付き”の契機である」からです。

僕は、正直言うとわかりあえない人とは仲良く出来ません(^^;;
例え仕事だとしても。。。だから、営業出来ないんです(苦笑)

未知のことを「わかる」ためには「いまはわからない」ものに触れる必要があります。いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」ことによって「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。

頭が混乱する文章ですが、これこそが哲学って感じですね。
レヴィナスは、さらによく分からない文章で「顔」の重要性を指摘します。

ひとり「汝殺す勿れ」を告げる顔のヴィジョンだけが、自己満足のうちにも、あるいはわたしたちの能力を試すような障害の経験のうちにも、回帰することがない。というのは、現実には殺すことは可能だからである。ただし殺すことができるのは、他者の顔をみつめない場合だけである。

筆者曰く
これほどまでに「なんだかよくわからないけど、何かとても大事なことが書かれている気がする、、、」と感じさせる文章も少ないのではないでしょうか。

僕にはさっぱり何の事か分かりません(笑)
顔のビジョンを交換する事が大事な様ですが、、、分からない(^^;;

レヴィナスが唱えた「他者」の概念は、今日、ますますその重要性を高めています。ネットによる「島宇宙」化が進むことで、年収や職業や政治的傾向によって形成された社会的なグループごとに原理主義的な純粋培養が進み、相互の意見交換がほとんど「対話不可」と言っていいほど難しい状況になっています。そのような状況になったとしても、「顔」を見合わせて対話をし続ける努力が必要なのではないでしょうか。

今日も難しかった。。
哲学とは、、なんなんでしょう。。。





ここまで読んで頂きありがとうございます😊