心の中は空っぽだった

文章を書くことを仕事にしてみたい。自分の文章に対して対価が払われる、どんな気分なんだろう。ネットなどでエッセイを読むと、やはり文章を書くことを生業としている人は読みやすい。どんな人でも最低限読みやすい。その中でも上手な人はわかりやすい。筋道のある文章を書いている。

自分の書く文章はまずわかりにくい、読みにくい。先を考えて書けないから、短い文の積み重ねになる。そして説明が足りない。口下手な文章だと思う。私は人に説明をするのがすごく苦手。一所懸命伝えようとするけど、ほとんどの場合、この人は何が言いたいんだろう?どういう意味なんだろう?という顔をされる。自分でも自分が何を言いたいのかわからなくなる時があるぐらいだから、そうなるのも仕方なし。けど人からそう思われていることに気が付く瞬間は本当に切ない。時間を無駄にしてしまい申し訳ない気持ちと、頭の悪い人と認定されてしまうことが辛い。

もっと「自分は馬鹿です!」と堂々と宣言しながら生きていけたら気持ちが楽になるんじゃないかなと、時々思う。馬鹿なのに賢いふりをしながら生きているのはしんどい。時々「馬鹿なふりして」という言葉を聞くけど、馬鹿なふりができるのは頭の良い人だけ。馬鹿が馬鹿なふりしたら、それはただの馬鹿だから。それから本当の馬鹿は頭の良いふりはできない。馬鹿にできることは馬鹿なことだけ。

私は計画を立てて物事に取り組むことができない。スケジュールを立てることができないのだ。先のことを考えたり、今までの経験から結果を予想することができない。直前になり、取り返しのつかない事態に直面してからいつも深刻な状況に気が付いて、そこから慌てふためき何とか取り繕うとする。私のこの繰り返しはいったい何なんだろうか?他の人はどうしているのか?所謂、仕事ができる人になりたいといつも思う。けれどそれにはいろいろなことが足りない。地頭とかスペックとか、そういう言葉を耳にすると胸の奥がギュッと苦しくなる。それからすごく不安な気持ちになる。私は紙でできているのだろう。とても弱い。

耐えて耐えて、恐怖を隠しながら、逃げたい気持ちを精一杯奮い立たせて、今まで何とか生きてきた。けど次から次へと問題は起きる。落とし穴から別の落とし穴へ落ちることを繰り返してきた。落とし穴に落ちずに前へ進む方法を身につけたい。私の目は開くことはないのだろうか?

自分の心にブレーキをかける何かがある。なんだかわからない恐怖や面倒くさいと思う気持ちだ。それらが行動にストップをかけるのがよくわかる。心の中にぶわっと膨らむ何かがあるのだ。それが心の中いっぱいに膨らんでブレーキを押す。それを無視することはできないのだろうか?気が付かないふりをして、窓の外へ捨ててしまえればどれだけ楽なんだろうか。心の窓の外も結局心な気がするけど、走らなければいけない時にブレーキを踏む危ないやつからいったん離れることができればそれでいいのではないか。心の中に恐怖や面倒くさいと思う心を隔離できる小部屋がある、そう言う人間が勇気のある人間、できる人間なんだろうと思う。

心は非常に肉体的だ。心の世界を仮定すればとても物質的存在だ。私はありがたいことに体はそこそこ頑丈だと思う。けれど心はとてもか弱い。病弱で小さくて痩せている。環境の変化ですぐ風邪をひいて寝込んでしまう。本当に周りに左右されやすい。人の気持ちをシャットアウトすることができない。

昔、占い師だか霊能力者だかに、心の殻が硬くて中が見えないと言われたことがあった。見えないなら金返せとは言えなかったけど、心の殻は硬いのに、人の気持ちにすぐ左右されてしまうのはどういうことなんだろうか?殻が硬いなら誰にも左右されないのが本当じゃないのか?もしかすると殻の中身は空っぽなのかもしれないな。中が見えない理由もつく。何もないんだからそれは見えない。

どうして何もないんだ?他の人と同じように生きてきた。それでなんで私の心は空っぽなんだ?どこかで私の魂の核は盗まれてしまったのかもしれない。きっと物心がつくずっと前に、悪い何かが無防備な心を奪っていったのだろう。どうすればそれを取り戻せるのだろうか。私は自分の意志がある人間になりたい。

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