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おじさん短編小説

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街で見かけたおじさんをモデルにした短編小説です。特に殺伐としがちな通勤中に見知らぬおじさんの幸せを願いつつ心の平安を祈るマガジンです。
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記事一覧

#016_勉強おじさん

大人になったら毎日スーツを着て会社に行く。 大人になったら毎日夜遅くまで仕事をして帰る。 大人になったら毎日晩酌に瓶ビールを2本飲む。 漫然とそう信じて育った。 個人差はあれど、同じ世代なら似たようなものだろう。 人生を季節に例えるなら、私はいま晩夏、いや初秋にいる。 私の知るかぎり、勉強は人生における春の季語だった。 あのころの自分に伝えたい。 おまえは大人になっても毎日勉強しているよ、と。 そして、それは案外悪くないよ、と。

#015_散髪おじさん

1000円カットというものが出てきてもうどのくらいになるのだろう。 20年近く通った理髪店に見切りをつけたのが、ちょうど流行しだしたころだった。 短くした髪は伸びるのも早く、月に一度は通っている。 切ったことも気づかれないほど変化のない髪型だが、私は気に入っている。 濃い顔立ちのせいか、清潔感があると言われたことはない。 それでも、妻のシャンプーを使っているとそれなりに良い匂いがするものだ。 気持ち悪がられるので妻にも言ったことはないが、今日も鏡を見ては誰もほめてくれな

#013_活躍おじさん

女性が元気な会社は良い会社だ。 どこかの経営者がそんなことを言っていた。 たしかにそうだろう。 女性は元気に働いているべきだ。 おじさんの背中は誰も押してくれない世の中である。 おじさんはおじさんであるだけで恵まれているのだから仕方ない。 電車で痴漢にあったこともないし、受験で不利益な扱いを受けたことも、おそらくない。 結婚や出産というライブイベントがキャリアに響いたこともない。 それでも、私は元気に働けていない。 ノルマこそないが、上からは納期を迫られ、下からの相談

#014_正装おじさん

「今日はどこかへおでかけですか?」 知り合いに会うとよく聞かれる。 同世代でカジュアルな洋服をうまく着こなしている人もいるが、どうも私には難しい。 鏡に映った自分を見ると、寝巻き姿みたいだなとおもってしまうのだ。 顔が固いのよ、と妻には言われる。 会社勤めを終えてもう5年が経とうとしている。孫に会うと表情もゆるむ。 それでも、普段は固い顔に見えるらしい。 心配症は生まれつきだ。このごろも身体のあちらこちらにガタがきている。 たまには昔の友人に会ってみるか。 友人の元か

#002_無おじさん

夜は退屈だ。 単身赴任でアクセスの良い土地に住んでいるが、昔からひとりで外食することに抵抗がある。 かといって自炊と呼べるほどのものが作れるわけではないのだが、米を炊いて野菜炒めのようなものを食べる日が多い。 カットされた野菜や肉を買って炒めるだけ。洗いものが面倒と言えば面倒だが、外食より楽だし栄養も取れている。 妻とはあまり連絡をしない。 こちらから連絡するほどの用事もないし、たまに連絡してもすぐに会話が途切れてしまう。 それでも月に一度は帰るようにしている。 家族の

#012_寝癖おじさん

朝は昔からパン派だ。 浅めにトーストしてハムを挟み、ケチャップをかける。 そんないつもの朝食が、今日はとれなかった。 いつもの時間にいつもの目覚ましが鳴り、いつものテレビ番組を観ながら目が覚めるのを待っていた。なんの問題もない朝だった。 いつもより早く出社するべき日だと思い出したのは、アイデア商品を紹介するコーナーが始まったときだ。 人間、追い詰められるととっさに捨てるべきものが見えてくる。 断捨離が流行ったが、早い話がみんな追い詰められれば捨てるべきものは捨てられる

#011_吊り革おじさん

通勤電車で座りたいのは当たり前の話だが、座れないのも世の常である。 毎年冬になると吊り革は汚いという話になる。 いつから日本人はこんなにきれい好きになったのか。 そもそもきれいなものなんて無いのだと認めればもっと生きやすいのではないかとおもう。 とはいえ、外でインフルエンザでももらって帰ると家族に移してしまうことがあるかもしれないので、多くの人が触る吊り革はなるべく輪ではなく革部分を握るようにしている。 帰ってすぐに手を洗うのも、自分がきれいでいたいからではなく、家族を

#010_歯医者おじさん

好きで歯医者をやっている人がいったいどれだけいるのだろう。 歯医者は収入がいい。人の生命にかかわるオペもない。最初はそれだけだった。 世界から虫歯がなくなれば仕事がなくなる。 だからどうすればいいかは患者に教えても、本当にそのアドバイスで虫歯にならなくなってしまうとつらい。 そんなことで最近は予防歯科を全面に打ち出したクリニックが増えている。 もはや歯を削ることになんの抵抗もないが、誰も削られたくはないだろう。 患者との感覚がずれていくのを感じてはいるが、職業病というも

#009_肥満おじさん

会社では仕事の話しかしない。 部署の飲み会というものにも極力参加しないようにしている。 もう定年を間近に控え、見た目を気にするような歳ではない。 ずっと独身だし、彼女がいたのもはるか昔のことだが、もうそんなことを気にするような時期は過ぎた。 45歳くらいまでは両親にも心配されたが、言っても無駄だとおもわれたのか、ある時期からなにも言われなくなった。 太っているのは悪いことばかりではない。 食堂ではなにも言わずとも大盛りにしてもらえるし、電車は狭いが向こうからよけてくれる

#008_甲虫おじさん

子どもはもう大きくなったが、イクメンという言葉があるなら自分もまだそう呼ばれるべきではないか。 かぶとむしを育ててもう20年になる。 知り合いから幼虫をもらったのがきっかけだが、こんなにも楽しいとはおもっていなかった。 オスだろうか、メスだろうか。体は大きく育つか。 幼虫のときからそんなことを考えている。 育てばネットで売りに出すが、ビジネスのつもりでやっているわけではない。 売値も相場より安いし、かけている手間と時間を考えればそもそも割に合わないものだ。 会社で話し

#008_自由おじさん

お前は自由でいいよな。 学生時代の友人にはよくそう言われてきた。 若く見られるが、もう50代に入ろうとしている。 自由に見られるのはメーカー勤務で通勤が私服だから、加えて髪を茶色に染めているからなのだろう。 そんな自由なイメージとは裏腹に、製造現場には前例を重んじる風土がある。 責任ある職についている私は無論その前例を守らせる指導をしている。 無事故操業を続けていることに誇りは持ちつつ、なんとつまらない仕事だ、とおもうことがある。 前例を守ることには、これまでに起きて

#007_スマホおじさん

電車ではずっとスマホを眺めている。 若者の話ではない。これは私の話だ。 冬は手袋を外さなければスマホが反応しない。 そのまま使える手袋があるらしいが、素手で触っているほうが間違えずにタッチできる気がする。 若者はいったいスマホでなにをしているのだろう。 ニュースを眺めてみても、朝のニュースで聞いた話題以外には芸能人のスキャンダルやスポーツ選手の活躍ぶりを伝えるものばかりで興味をそそられない。 家にいるときにはテレビを眺めている。昔からそうだった。 私は受け身での情報収集

#006_キャッチボールおじさん

息子とキャッチボールするのが夢だった。 昨日少年野球の練習風景を見かけておもいだした。 結婚して2年、待望の第一子を授かった。 女の子だった。 男兄弟に育った自分に女の子が育てられるだろうかと心配したが、父親の心配などどこ吹く風と健康に育ってくれた。 小学校から中学校まで野球を続けた。 ものにはならなかったが、素人よりうまいだけでも会社の草野球チームでは重宝された。 高校になっても野球を続けたいというほどの熱意はなかった。 決して強豪校ではなかったが、地方大会ではそれな

#005_自省おじさん

会社では部長という職に就いている。 同期に比べると比較的早く出世してきた。 妻や息子には「そんなことしてたら会社で嫌われるよ」とありがたい忠告を受ける。 しかし、私は上司として面倒見の良いほうだとおもっているので、まったくよけいなお世話だ。 「最近の若手は仕事への情熱が足りない」 昔からよく聞く話だ。 たしかに私の若いころをおもえば、もっとがむしゃらに仕事に取り組んでいたような気もする。 でもどうだ。 私があのころ1時間で生み出していた価値をいまの若者はいったいど