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デザイン音楽時々妖怪〜其の6〜

Yellow Magic Orchestra。

略してYMO

はっぴいえんど〜ソロ作品を経た日本音楽界のジェダイマスター細野晴臣さんが
サディスティックミカバンドなどで海外公演なども経験していた高橋幸宏さんと、東京芸術大学を卒業し、様々なアーティストのサポートミュージシャンをしていた坂本龍一さんを迎えて結成された
言わずと知れた日本が世界に誇るモンスターバンドです。

マーティン・デニーの「FIRE CRACKER」を
クラフトワークのようなシンセサイザーを多用したアレンジを施し、
全世界で400万枚セールスする!という
とんでもない野望と共にスタートしたこのYMO。
1978年のデビューから散開(解散)した1983年までの
5年という短い期間ながら
「RYDEEN」というスマッシュヒットにより
世にYMOブームを巻き起こし、
小学生がお父さんの髭剃りでもみあげを切り落とし、
アルバムごとに様々な手法を取り入れて
良い意味でも悪い意味でもファンを裏切り続けてくれた
その功績はあまりにも大きなものでした。

ミュージシャンにも大きな影響を与え
電気グルーヴ、コーネリアス、高野寛、テイトウワ、槇原敬之などなど
YMOチルドレンと呼ばれる人たちには列挙にいとまがありません。

そんなYMOに僕が出会ったのは1991年高1の事。

そうなんです。

僕とFくんがYMOがどーたらこーたら言ってたのは
散開(解散)してから、まるっと8年もの歳月が経ったころ。
だいぶ後追いのファンだものだから
情報はなかなか少ない状況。
そんな中でもこのFくん、
いろんなところで情報を仕入れてきては
僕に色々と教えてくれるのです。

その中にはYMOがそのサウンドをお手本にしたと言われた
テクノの始まりであり頂点、そして神であるクラフトワークや、
YMOと同時代にテクノ御三家と言われたP-MODELなど
いわゆるピコピコとした音が特徴なバンドの
音楽も含まれていました。

その時期の僕は
魂レベルから欲しているかの如く
ピコピコサウンド(現在ではエレクトロやテクノポップと呼ばれる音楽)を吸収し
急速にどっぷりと浸かって行ったのです。

そうしている内に、
遂にテクノのセカンドインパクトが
僕に訪れるのです。

それが前回最後に書いた

「電気GROOVE」との出会いでした。

YMOの「COSMIC SURFIN'」をカバーしてるという情報を聞きつけ
彼らの2ndアルバム「UFO」をレンタルして聴いたのがファーストコンタクト。
その当時の電気の音は僕が好きなピコピコとはちょっと違うけど
近い音だなぁという印象。

でもその時は圧倒的に歌詞の面白さや
ラップ調の歌から紡がれるリズムの心地よさみたいなものへの
興味というか面白みを感じているだけでした。

そして
3rdアルバム「KARATEKA」を経て
1stアルバム「FLASH PAPA」のリミックスアルバム
FLASH PAPA MENTHOL」が発表されます。

このアルバムを聴いた僕は
「おや?」となります。
サウンドがこれまでの電気のものと
全然違っていたからです。
「生ゴミOH2」の小西康陽さんや
「Bingo!」の近田春夫さんなど
外部の人のリミックス曲は当たり前だけど
電気自身が手がけた曲たちは
明らかに音像が変わっていたのです。
「なんなんだこれは?」と思っていたその7ヶ月後、
ついにあのアルバムが発売されます。

電気GROOVEの大傑作アルバムであり、
TECHNOという音楽を
多感な僕らのような少年少女の心に
解けない呪いのように植え付けていった
記念碑的かつ地獄の入口のようなアルバム。

それが、
1993年12月に発売された
電気GROOVEの4thアルバム

「VITAMIN」。


僕の人生を豊かにし、
大きく動かした分岐点であり、
人生で最も聴き込んだアルバムであり、
そして多くの喜びと感動を与えてくれた
この「VITAMIN」との出会いは、
これまでのTM NETWORKより
YMOよりも
はるかに衝撃的な「事件」でした。

そして
TECHNOと呼ばれる
ダンスミュージックの底なし沼に
ズブズブと足が入り込んだ瞬間でもあったのでした。

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