その後の展開

幼少期の極貧時代を経て、不良少年の極地にいた、16歳の自分は、とても熱心な青年部(当時の役職は大B長と言っていた)に折伏(布教活動)されて、入信しました、当時は暴走族が、流行しており流行に乗って750のバイクに無免許で跨り、街を駆け回っていた青年が、いつの間にやら、スーツに身を包み、ネクタイを締めて学会活動に励んだのは、大きな理由がありました。当時の大B(大ブロック)は家族のように暖かく、不良のどこの馬の骨ともわからない怪しい奴にも、優しく暖かな応対をしてくれました。会合に出れば、そこには八百屋や魚屋のおっさんが、社会的地位の高い高学歴の社長相手に、信心指導をするなど、当たり前の光景で、笑いあり涙あり、感動がある創価家族が、そこには確かにいました。
今はどうでしょう、続くコロナ禍の影響もありますが、会合はオンライン、たまに集まることが、あっても、大きく立派な会館です、組織が大きくなるにつれ、冷たく権威的な幹部が、上から目線で指導をすることも、見受けられました。自分の中の創価学会は、どこまでいっても、あの小さい家族のような創価学会であり、その気持ちは今でも変わりません。そうした中、自分も毎日活動を続け、いつのまにか幹部になってしまいました、どちらかと言えば武闘派の自分は、主に創価の敵と戦う役目を仰せつかり、創価班広宣部というポジションで当時の敵である、妙観講や顕正会などと法論闘争に明け暮れました。その時は正義の戦いという自覚しかなく、自分のやっていることが、全て正しいと信じておりました。
人というものは怖いもので、正義という大義が、あれば、異常な行動にも疑問を持たなくなります。本来、最高の平和団体である創価学会が、敵を壊滅させるためには、あらゆる手段を使って正義を貫いたのは、事実であります。
確かに目的が正しければ、そこに至る努力は、全て正当化されてしまうものです、そこに宗教的狂信な危なさがあります。最近話題になった元赤軍派のとある女性は、異常な行動を認めたにも関わらず、あの時の行動は間違っていなかったと言いきりました。組織から離脱して、裏切り行為を行った者を総括の名の下に、虐殺したことは、どんな正義を叫ぼうが、許される事ではないのではないでしょうか?もちろん創価学会活動にそのようなことは一切ありませんが、非常識な活動を行ったことを、今でも後悔することが、あります、懺悔の気持ちを込めてここに描きつらねて、いこうと思っております。

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