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(52)ルーマニア映画祭で考える権力と個人

[2023/4/29]

 私が毎年楽しみにしているニューヨークのルーマニア映画祭(Making Waves: New Romanian Cinema NYC、詳細はこちら)は本年(2023年)17周年を迎えた。ここ数年、NY郊外の劇場とオンライン上映の組み合わせだったが、今回初めてマンハッタン南部の4つのアート系劇場を会場として、7本の新作とデジタル修復された古典作品『樫の木』(1992年、ルシアン·ピンティリエ監督)が上映された。その中から印象に残った3本を紹介したい。

鶏は見た

 『行動する人々(Men of Deeds/Oameni de treabă)』(2022年、ルーマニア・ブルガリア合作、詳細はこちら)は田舎道を走るトラックが揺れて荷台から飛び出した鶏がよちよち田園風景の中を歩くところから始まる。こうしてとぼけた喜劇のトーンでありながら、物悲しいストーリーへと続く。この鶏は折に触れ登場して自分の周囲の出来事を観察するように歩き回るので、この作品はまさにもの言わぬこの鶏が見た村の風景と人々なのである。

 映画は次に都会のアパートで口論する男女を見せる。彼らは別れた夫婦で、共同名義のアパートの部屋を巡っての口論である。男は田舎で果樹園を経営したいのでその資金を得るためにアパートを売りたいのだが、女は売りたくない。そこへ男の兄も登場して、弟の計画の無謀さを指摘する。弟のイリ(イウリアン·ポステルニク)が田舎に戻ると、それはルーマニア北部モルドバの眠ったような片田舎で、彼は警官である。中年で猫背、全く冴えない風貌で、まずこのようなイメージの俳優が主演をしているという事に感銘を受けた。
 単調なイリの生活は、新任の若い警官ヴァリ(アンゲル·ダリアン)を迎えてどんどん軌道から外れて行く。ヴァリはやる気十分なのであるが、最初に持ち込まれた事件は干してあったシーツが2枚盗まれたという女性からの苦情だ。のんびりした田舎の話かと思うとあにはからんや、それに続くのが殺人事件で、そのシーツは死体を包むのに使われていた。狭い村社会で起こった血生臭い事件にイリは事なかれ主義で通すが、ヴァリは一人で張り切って聞き込みを始めてイリに注意される。
 殺害された被害者の妻は評判の美人で、イリは地元を取り仕切る村長から関わらないようにと引導を渡されていたが次第に彼女に心をときめかすようになる。村長から果樹園を贈られてイリは悪に懐柔されってしまったのかと観ていてハラハラするが、ヴァリが瀕死の重傷を負わされ被害者の妻が脅されて村を後にするのを見て、イリは単身村長一派に挑んで行く。
 本作は1984年生まれのポール·ネゴエスク監督の長編第3作目。都会育ちの監督は田舎を舞台にしたラドウ·ロマニウツとオアナ·チュドルの共同脚本を読んで自分は映画化する自信が持てなかったそうだが、必ずしも正義の味方ではない主人公に惹かれて映画化に同意したという。確かにイリは村社会にさざなみを立てることをよしとせず、人が殺されているのに職務を果たさず、村長からあてがわれた果樹園に夢中になって木々に指をつたわせ実を愛でている。単調でうらぶれた生活も、果樹園を始めることで一新すると信じているのだ。
 しかしそんなイリも身近な人々の被害を前に、悪を見過ごすことができなくなる。無気力だったイリが一気に爆発する過程が非現実的とも思えるが、偏狭な村社会の雰囲気はリアルである。

海上の葛藤

 『北へ(To the North /Spre Nord)』(2022年、ルーマニア=フランス=ギリシャ=ブルガリア=チェコ合作、詳細はこちら)は、1996年に実際に起こった事件を基にした1980年生まれのミハイ・ミンカン監督の長編処女作。スペインの港に停泊するコンテナ船に密かに潜り込んだ2人のルーマニア人の青年。時を見計らって隠れ場所から最初に出たひとりはフィリピン人の船員と接触した後に台湾の船長助手に呼ばれ、その後姿を消す。

 台湾籍のこの船では船長と数人の台湾人上級船員の下でフィリピン人の下級船員がいて、フィリピン人たちは待遇に不満を持っている。フィリピン人のグループの頭、ジョエル(ソリマン·クルズ)は、もうひとりのルーマニア人密航者ドゥミトル(ニコライ·ベケル)が最初の密航者の轍を踏まないようにと念ずる。ジョエルはドゥミトルの持つ聖書を見て、さらにその思いを深くする。この船では密航者が見つかると抹殺してしまうという方針が取られていて、密航者を密かに助けることはフィリピン人乗組員全体の危機となる。敬虔な信者であるジョエルは悩みながらキリスト教精神によって困っている者を見捨てることが出来ない。その葛藤が狭い船内を舞台にしてスリリングに盛り上げていく。
 大西洋上を静かに進むコンテナ船の空から見た姿が何度も画面に登場する。深い海原の中でこの船の中の世界はあまりに狭い。密航者を助けるか、同胞の安全を確保するか、その相剋に苛まれるジョエルは良心的なひとりの人間として至極真っ当で、その悩みはあまりに人間的である。台湾人たちに見破られないように狭い船内のどこにドゥミトルを隠すか、彼にどのように食事と水を運ぶか、全てが緊迫感に満ちた過程である。暗闇の中に一人置かれるドゥミトルの恐怖も迫真を持って描かれる。映画では描かれていないが観る者が想像を働かせれば、ドゥミトルは排泄物をどのように処理したのかなど、喫緊の問題は映画を超えて絶望的に観る者に襲いかかる。
 目的地カナダまでの4日間の緊張。そして台湾人たちも密航者の存在を知り始め、フィリピン人の中でも亀裂が始まっているらしき動きが出てきて、映画は綱渡りの連続である。苦悩に満ちて決して笑顔を見せないジョエルの顔に刻まれる皺はくっきりと浮かび上がり、彼の身体全体が常に固まっている。そしてドゥミトルの予想を裏切る行動によりはっきりした善悪がつかないところに、現実的深みが加わっている。
 本作が出品されたヴェネツィア映画祭でミンカン監督は、これは言葉が通じないもの同士がお互いに抱く恐れと意思の疎通の不可能さについての映画であると語っている。監督と言語を同じくしない台湾とフィリピンの俳優たちとの演出上のコミュニケーションには彼らの顔の表情を重視し、これこそ言語に依らない映画独特の表現だと述べていた。そのため俳優の顔のクローズ·アップが多く、それが緊張を高めている。

純白の世界は有り得るのか

 モニカ·スタンとジョージ·キペル=リレマルク共同監督の『純白(Immaculate/Imaculat)』(2021年、ルーマニア製作、詳細はこちら)は題名通り白を基調とした視覚デザインで、両親によって麻薬依存症更生施設に入れられた高校生のダリア(アナ・ドミトラスク)の日々を紡ぎ出す。ボーイ・フレンドからヘロイン中毒にされたダリアが施設に到着すると、同室の女性は男性と堂々と同衾。ダリアも直ぐに収容されている男性たちに取り囲まれる。

 収容者たちを仕切る肌の浅黒い巨漢のスパルタツ(ヴァシレ·パヴェル)はジプシーのようだ。彼は直ぐにダリアに手を伸ばしてくるが、当惑したダリアは何とかその場を凌いで彼の翼下に入ることで他の男たちから身を守る。しかし粗野で凶暴なスパルタツと対照的に知的で穏やかなエマニュエルにはトイレの中で密かに余分の薬を回してもらい、身のある会話も楽しむようになる。
 その均衡が破られるのは、刑務所に入っているダリアのボーイ·フレンドが送り込んだコステアが突然現れてからだ。コステアに監視され言いなりになりながらダリアはコステアとも肉体関係を結び、嫉妬深いスパルタツの怒りを買う。
 この作品も全編通じて人物の顔や胸から上のクローズ·アップが多いので、施設全体、あるいは部屋の全景も決して示されることがない。それだけに見ていて登場人物がどこにいるのかわからない不安がストーリー全体を覆っている。ゴミ一つ落ちていない一見清潔な施設も、白い表層の下には得体の知れない闇や凶暴さが潜んでいる。収容者も全員が白い衣服を着ているが、単調な視覚デザインと対応するように、聴覚デザインもシンプルだ。
 映画の最後には黙して外の世界に踏み出すヒロインを長回し、手持ちカメラで背後から捕えていく。男たちの顔色をおずおずと伺っていた彼女が強靭になって出ていくイメージとして効果的だ。本作は脚本家として活躍していたスタンの処女監督作、撮影者としての経歴があるキペル=リレマルク監督は2本目となる共同監督作品で、2021年のヴェネツィア映画祭で新人監督賞を受賞している。スタンは本作では脚本も担当し、自身と周囲の何人かの人たちの実体験を基に、登場人物をフィクションとして膨らませて本作を作ったと言う。そして本作は麻薬中毒についての映画というよりも、18歳の女性が男性が支配する施設で、ヒロインが対処しなければいけない権力関係について描いたと語っている。また、ヒロインはあまりに自分自身の体験に近いので、客観的視点が欲しくてキペル=リレマルクに共同監督を頼んだ。キペル=リレマルクは本作で撮影も担当し、複数の人物が様々な動きをする複雑な構成の作品で、意図的に人物を画面ギリギリに捕える構図にしたと述べている。
 ルーマニアなどかつて社会主義国であった国々では、小さなコミュニテイにおける腐敗した権力に苛まれる人物についての映画が多い。体制が変わっても権力の腐敗という構図は続く。本年度も閉ざされた環境で主人公が権力にどのように対処していくかが共通したテーマであった。

写真提供 Making Waves festival

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