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(15)グルジア、サカルトヴェロ、ジョージア

[2014/11/14]

ジョージア映画特集 第一部

 2009年グルジア(Gruziya)政府が日本政府に対して国名を「ジョージア(Georgia)」と変更するように求めた。彼の地の人々は自分たちの国を「サカルトヴェロ(Sakartvelo)」と呼んでいるそうだが、「グルジア」とは旧ソ連の頃のロシア語の呼び方であり、「ジョージア」という英語表記使用を日本にも求めたのである。
 「ジョージア」と言えばNYの私の周囲の人々も「ああ、あのアトランタの」と『風と共に去りぬ』の舞台になったジョージア州のことを連想するのだが、独裁者のスターリンの出身地の旧ソ連邦の、と説明すると「ああ、あの……」と黒海沿岸の地が連想されるようだ。映画界の人には「パラジャーノフの出身地の」と言えば通じる人も多いし、美術史に強い人には「ピロスマニの」と説明すればだいたい解ってくれる。当コラムは日本政府に先駆けて、以下「ジョージア」と表記する。
 映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(1924〜90)はジョージアの首都トビリシ生まれのアルメニア系だそうだ。今年(2014年)のNY映画祭回顧展でアルメニアの詩人の人生を綴った『ざくろの色The Color of Pomegranates』(1969)がデジタル修復されて上映されたが、それはそれは見事な絵巻であった。一つ一つのイメージが絵画のように静止したかと思うと、動きのある場面もある。赤やオレンジや緑の極彩色の衣類を身に着けた眉毛の濃い人々や果物や壺が、密度あるパワーで私にのしかかって来る。ある場面では若い修道士が修道院の屋根に本を干す作業をしていたが、風にパラパラめくれる頁がこの本が書かれた年月を思い起こさせ、悠然たる歴史の流れを感じさせた。

 パラジャーノフ監督は遺作『アシク・ケリブAshik Kerib』(1988)のNY映画祭の上映に立ち会い、自分が監獄から釈放されアメリカに来れたのはマダム・レーガン(ナンシー・レーガン元大統領夫人)のおかげだと彼女に感謝を捧げる言葉を壇上で連発した。レーガン夫妻は当時のアメリカでは右翼の権化のような存在であったから、パラジャーノフの言動は会場のスーザン・ソンタグなど左翼的文化人たちを当惑させたのが思い出される。
 パリで活動するジョージア出身の監督オタル・イオセリアニ(1934年生まれ)も国際的に有名である。私は見ていないが、日本でも『素敵な歌と舟はゆく(And Then There Was Light) 』(1989)や『月曜日に乾杯!(Monday Morning) 』(2002)がヒットした。
 10月から12月にかけてMOMA(NY近代美術館)で開催されているジョージア映画特集は二部に分かれ、世界中の映画アーカイブから集められた1907年から2014年までのジョージアの映画の歴史を概観する企画である。共同企画団体であるカリフォルニア州バークレイのパシフィック・フィルム・アーカイブのほか、アメリカの首都ワシントンとカナダのトロントにも巡回される。
 第一部はジョージアの映画界に多く見られる家族関係に焦点を当てたもので、親子、兄弟姉妹、あるいは夫婦同士で映画人という場合が紹介されている。ここで私は日本でも上映されて人気の高い『ロビンソナーダ(Robinsonada/My English Grandfather) 』(1986)を今回初めて見たが、ナナ・ジョルジャーゼ監督(1948年生まれ)が夫のイラクリ・クヴィリカーゼ脚本で撮ったものだ。

第一次世界大戦の直前にロンドンからデリーまでの電線の点検の仕事でジョージアに来たイギリス人技師が土地の女性と恋に陥り、村から追放されたのに電柱の周囲3メートルは英国領だと主張して居座るというストーリーである。ユーモアに満ちたエピソードが続くのだが表現方法は前衛的で、時間軸や空間的配合は気ままに無視されてしまう。その技師が最後に銃殺されてしまう悲しい物語なのだが、この映画の最初から最後まで自由で豊かな映画表現に、柔らかく抱擁されるような幸福な気分になった。
 やはり日本で公開されて話題になったテンギス・アブラゼ監督(1924〜1994)の『懺悔(Repentance) 』(1984) は強烈な迫力を発揮している映画である。本作については既に日本で多くの映画評が書かれているのでここでは省くが、独裁者の恐怖がこれまたとんでもない前衛的イメージで153分展開するので、頭がくらくらし続ける体験だった。

今回の特集で本監督の初期の作品も紹介された。『マグダナのロバ(Magdana's Donkey)』 (55) (レゾ・フヘイジェと共同監督)は見逃したが、『祈り(The Plea/The Prayer)』 (68)はモノクロの画面に絞り出すような歌や、朗読のようなナレーションが続く不思議な映画であった。

『願いの木( The Wishing Tree)』 (76)はカラー作品で、村のいくつかの民話的エピソードが続いていく。

『雀の飛行』

 今回特記したい作品はテイムル・バブルアニ監督(1948年生まれ)の『雀の飛行(Flight of the Sparrows/Migrating Sparrows) 』(1980)である。60分の短い映画だがモノクロ、シネマスコープの横長の画面構成が活用されている。例えば狭い車内の場面になると、横に伸びる構図から縦に加わる圧迫感が強く感じられる。反対に野外の場面になると、画面の外側に広がる空間の存在がさらに感じられるのである。
 映画は夜中の線路沿いの駅で始まる。がっちりとした体格の中年の男が闇の中から現れて線路を渡り、タンゴの音楽が奏でられている貨物の横を通り、がらんとした駅でほかの男と話を交わす。列車が駅に入ってきて、その男は車掌に切符を渡し、料金が足りないと言われてお金を足して車内へ。すすけたようなうらぶれた田舎町の、もの悲しい雰囲気が漂うシークエンスである。
 ざわざわした夜行列車の中には人があふれ、手持ちカメラは動き続けて人々を映し出す。クローズアップで顔が主に映し出され、人々の身体の一部しか見えないだけに混雑ぶりが強調され、人いきれが観ている側に迫ってくる。3人掛けの真ん中の席についた男の横は星条旗をモチーフにしたTシャツを着た若い男、もう一方には中年の男、彼らの上には寝台があり、女性が寝そべっている。男の向かいには身なりの良いスーツを着た金髪の優男が座っていて喋っている。主人公の男の名前は最後まで明かされないが、彼が着ているジャンパーの表面の皮かポリエステルは見事にめくれあがっているし、他の慎ましい姿の人々の中でこの伊達男のお洒落なストライプのスーツは目立っている。伊達男は自分がオペラ歌手で、世界中を旅して数か国語を喋り、普段は一等に乗るが空きがなく今晩初めて三等列車に乗ったとぺらぺら話し続けている。その話に車内の一同、そして寝台の女性が目を輝かして聞き耳を立て、話に加わったりする。
 じっと黙ってうつむいていた男は、シャツの胸ポケットから小鳥を出して掌に載せパンくずをあげる。この鳥は男に慣れていて逃げる気配もない。小鳥の可愛らしさに人々の注意はそちらに移る。すると伊達男が以前飼っていた鳥が逃げた話をして、また人々の注意が伊達男に戻る。
 突然男が小鳥を胸ポケットに収め「いつまでくだらない話を続けるのか」と挑発して伊達男とつかみ合いの喧嘩になる。カメラは斜めになったり激しく手持ちで揺れ、その動きを狭い車内で捕え続ける。警官二人がこの騒ぎに気づいて向かってくるので、小鳥を連れた男は人がごったがえす通路をかきわけて寝台車へ逃れ、鍵のかかっていないコンパートメントの空いている下の階のベッドを開いてその下に隠れる。ほどなくこのコンパートメントの男が戻ってきて、何も知らずにベッドの上で寝てしまうので、場内では笑いが沸いた。
 周囲が明るくなり、ベッドの下にいた小鳥の男がベッドを押し上げ、驚くベッドの主を残してトイレへ入る。私は小鳥が無事かどうか心配だったが、男のシャツのポケットから小鳥は出されてちょんと鏡の下の台に置かれる。男は顔を洗い、窓から外を眺めているとあの伊達男のオペラ歌手が列車から降りて歩いているのが見える。男は慌てて小鳥を胸ポケットに入れ、走る列車から飛び降りてオペラ歌手を追う。
 それから小鳥をまた胸から出してちかくのコンクリートの塊にとまらせ、男はオペラ歌手を襲いかかる。小鳥がどこかに飛んでいってしまわないか、私は気が気ではなかったが、ちゃんと次のシーンまで小鳥はおとなしくとまっている。オペラ歌手のカバンから出てきたのはブラシや刷毛。私は彼のメイキャップ道具一式かと思ったのだが、男がけたたましく笑って「お前はペンキ屋だったのか」と言う。
 そこへ小さなトラックがどこからともなく走って来る。そして突然の爆音。エンジンが故障したようだ。男に助け出された運転手はガソリン・ボンベを運んでいるからトラックから離れるようにと叫ぶ。男は車体の前部を開けて、焼けるエンジンを冷やそうと、近くにある泥をつぎつぎ放り投げ、ペンキ屋もそれを手伝う。エンジンの異音が止み、トラックは無事に再び走り去る。
 男はヒッチハイクをしてライトバンの荷台に乗るが、荷台にはさっきのペンキ屋もいる。「どこへ行くのか?」とペンキ屋。「ロシアで建築の仕事をする」と男。「もう一人必要じゃないか?」「多分」「その男は歌も歌うよ」と言うペンキ屋に二人は大笑いする トラックの荷台の前の方にいた若い女性が振り向くと美しい笑顔だ。草原を走るトラックが広い景色の広がる画面の真ん中で小さくなっていくところで終わる。
 こうして何気ないストーリーなのだが、地味ながら個性的な俳優や秀逸なカメラワークにより、人間の弱さを露見させながらも優しい結末になり、心に残る映画となっている。小鳥の使い方も気が利いていて、しかも次に何が起こるかわからない巧みな展開である。
 この映画の上映前に、監督の娘ソフィア・バブルアニ(1976年生まれ)と息子ゲラ・バブルアニ(1979年生まれ、二人とも映画監督である)が映画の紹介をした。

MOMAのキューレターのユッテ・イエンセンによれば、本作の評判を聞いてぜひ特集で上映したいと思って探したが、どうしてもフィルムが見つからなかった。昨年MOMAの「新しい監督・新しい映画」特集でソフィアの映画を上映した時、ソフィアに『雀の飛行』の話をした。そうしたら何と彼女は「その映画ならパリの父のベッドの下にネガフィルムがあるはずだ」と言う。果たせるかな、ネガフィルムがそこから見つかり、MOMAが新しいプリントを作ってこの上映がお披露目となったのだ。
 そしてソフィアによれば、この映画は製作当時の1980年上映禁止となり、1988年にゴルバチェフが見て解禁したと言う。ゲラは若い頃この映画は退屈だと思ったが、父の映画製作の手伝いをさせられるうちにいつの間にか自分も映画監督になってしまったと言う。
 上映後、ソフィアとゲラにどんな映画を作ったのか聞いてみた。するとソフィアは以前私がこのコラム(9)で紹介した『戦いの前に何をあなたに願うことができるのか(Que pui-je te souhaiter avant le combat?/What Can I Wish You Before the Fight?)』、ゲラは以前私がトロント映画祭で見た『13 ザメッテイ(13 Tzameti)』(2005)という緊迫感あふれる心理スリラーの監督で、その作品は『ロシアン・ルーレット』(2013)としてハリウッドでリメイクもされた。映像センスと巧みに物語を語る才能がこの一家の血に流れている。

 ソフィアにお父さんはどのようにしてこの稀有なストーリーを思いついたのか、実体験に基づくものかと聞いてみたが、わからないとの答えだった。ソフィアとゲラにさらに聞きたかった質問があったが二人が忙しそうにいろいろな人と話しているので遠慮した。それは『雀の飛行』の検閲の問題だ。映画を見ると表立って当局の批判もしていないし、どちらかというと慎ましい二人の個人の話で、どこが検閲で問題になったのかわからない。後日ジョージア国立映画アーカイブ副所長のニノ・ジャンジャヴァ氏がジョージアの文化映画を紹介した時、休み時間中にこの質問を彼女にした。ニノ氏は、『雀の飛行』は最近見ていないし詳細を憶えていないのでわからない、でも子供がピオニールのスカーフをしていないとか、画面にレーニンの肖像がないという理由で上映禁止になった映画もあるから、何が当局の忌諱に触れたのかわからないこともあるとの答えだった。私が「映画の中で貧困が描かれているという判断だったのでしょうか?」と聞くと、「そうかもしれない」とのことだった。

文化映画

 ニノ氏が紹介した文化映画のプログラムも興味深いものだった。これらの作品は1920年代から1930年代にかけてソ連政府の指導の下、プロパガンダのドキュメンタリーとして製作され、昨年(2013年)デジタル化保存された。「文化映画」はナチス・ドイツや軍国日本でも製作され、政府の政策の一翼を担う国民たちの姿を通じて国民の国策に対する意識を高めようとしたものである。ソ連では集団農業、農村の保健、機械化などの題材が目立ち、健康な肉体の奨励はナチスの文化映画とも通じる。またこれは言葉(サイレント映画なので字幕による。字幕はロシア語とジョージア語が併記されていた)と視覚イメージによるプロパガンダであったとニノ氏は解説した。
 アレクサンドレ・ヤリアシュヴィリ監督『朝の10分間(Ten Minites in the Morning) 』(1930)は、 朝の体操の推奨である。ラジオ局でアナウンサーが3人の生演奏家を伴って放送を始めると、労働者住宅の男性30人ぐらいが起きる。別の住宅では女性が一人起きてブラジャーをつける(ショーツは身に着けている)。なぜブラジャーだけするのか不思議だったが、男性のほうは「ショーツと靴をはくように」という指示がでる。男女それぞれ体操を始める場面が見せられる。均整のとれた筋肉がばっちりの正統派甘いマスクのハンサムな男性がラジオ局でデモンストレーションを行った後、カメラに向かって観客に直接檄をとばし体操の重要さを説く。この男性は街路にも半裸で走って登場する。
 そのうちにレーニン、スターリンの肖像が背後に見える事務所に場面が変わり、刑務所での体操が考えをまとめるのに役立ったというレーニンの言葉が字幕で出てくる。その後マルクスの言葉も字幕ででてきたが、あまりに理論的すぎて私はその内容が理解できなかった。
 ヴァクタング・シュヴェリジェ監督の『集団農場の健康管理(Collective Farmer's Hygiene) 』(1934)は、子供に歯を磨くように、おじいさんには手を洗うようにと宣伝する農村の保健についての映画だ。まず集会場に農婦たちが集まってくる。若い頃の久我美子のように生真面目で凛とした女性が解説をするバスト・ショットが入り、カメラが集会所の後ろに退きその場に集まった人々が映画を見るというかたちとなる。舞台の幕が開き、画面にプロパガンダ映画が始まる。映画の最後にはまた女性が出てきて解説をし、幕が閉まる。このように「映画を見る体験」を観客に見せるという仕組みは何を目的としているのか、たぶん集会所に集まって皆で見る映画のプロパガンダ性を強調しているのであろう。
 ヴァシリ・ドレンコとコテ・ミカベリゼ共同監督の『種をまいたように収穫せよ(You Must Reap as You Have Sown) 』(1930)では 、麦やトウモロコシを収穫する農村で、トラクターや脱穀機を導入する機械化された集団農場の効用が描かれる。二つの村が収穫競争をするという設定だが、一つの村のトラクターの運転手が仕事中に村の結婚式に誘われて参加してしまう。そして飲めや歌えやのうえ新郎新婦や披露宴の客たちを乗せて川に転覆。修理に来た労働者たちは、その村人たちが運転手の身元を調べなかったことを批判し、「クーラッツ(革命前の地主)が身を隠して農村に紛れ込んだのではないか?」と述べる。新たに身元が確実な運転手が派遣されてくる。こうして革命の敵である地主階級への敵愾心を煽っているが、この映画が製作された頃にスターリンは着々と権力を固め、政敵にはこうした汚名を着せて粛清を進めたであろうことが私の頭を過ぎった。

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