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(25)シネマ・ユーゴ 2016

[2016/7/18]

 今年(2016)も、大学生を中心とする観客と討論する「シネマ・ユーゴ」では、旧ユーゴ地域の映画、最近作3本(英語字幕付きDVD)を、専門家による解説付きで上映した。2010年に3本の新旧スロヴェニア映画を大学で上映することから始まったこの「シネマ・ユーゴ」も、今年で第7回目を迎えた。

バスケット・ボール世界選手権優勝決定戦

 第1日目は、東京大学文学部現代文芸論学科の沼野充義教授の「東欧の文学と映画」という授業に組み込んでいただき、一般の人々にも公開された『我々は世界チャンピオンになる(We Will Be the World Champions/Bicemo Prvaci Sveta)』(2015)であった。

監督のダルコ・バイッチ(1955〜)と共同脚本家の一人、ネボイシャ・ロムチェヴィチ(1962〜)はセルビア出身。もう一人の共同脚本家のゴルダン・ミヒッチ(1938〜) はボスニア出身で旧ユーゴ時代から活躍し、エミール・クストリツァの脚本も書き監督作品もあり、ユーゴを代表する映画作家なので、私も当然期待した。セルビア・クロアチア・スロヴェニア・ボスニア=ヘルツエゴヴィナ・マケドニア共同製作の本作は、1970年にスロヴェニア共和国の首都リュブリャナで開催された、バスケット・ボール世界選手権で初優勝したユーゴ・チームの実話を映画化したものだ。
 主役はこの優勝をもたらした4人の男たち。第二次世界大戦後、国土は荒廃したが新しい社会を創るという希望に満ちていた1945年から始まった、彼らのバスケに対する情熱が生み出す葛藤や努力の数々を、リュブリャナでの試合の準備や決定戦のクライマックスの場面と交錯させながら描く。史実を基にしているので、ユーゴ・チームがアメリカとの対戦で勝つとわかっていても、いざ試合が始まるとそれまでの4人の苦労を見ているだけに、旧ユーゴにはわずか8ヶ月であり、アメリカに36年間住んでいる私は手に汗握って、アメリカではなくユーゴを応援してしまった。
 この4人の選手が経験するのは、政治に翻弄されるスポーツの実態である。ユーゴ・チームは、1950年、ブエノスアイレスの国際選手権で勝ち進みながら、チトー大統領の命令でフランコ政権のスペインと戦うことを禁じられ、棄権とみなされるやいなや帰国を余儀なくされる。その時に4人は、国際バスケット連盟会長のウイリアム・ジョンソン(アメリカ人俳優ジョン・サヴェッジ演ずる)がギリシャの富豪オナシスとバーで飲んでいるところに居合わせ、ジョンソンと知り合いとなり、この時以来友情を結ぶ。ジョンソンからユーゴのバスケットの戦法を褒められて、選手の一人ボラ・スタンコヴィチが「ユーゴの戦い方は、アメリカともソ連とも違う第三のやり方だ」と答える。これは、東西冷戦下に米ソ陣営のどちらにも属さず第三世界と連帯しながら独自の「非同盟中立」政策を世界の外交の場でとったユーゴの特殊な立場を反映したもので、思わず微笑んでしまう場面だ。ユーゴ選手たちは、アルゼンチンでタンゴの洗礼を受け、生まれて初めて見たバナナを食べるというユーモアに満ちた場面もある。
 また1970年の世界選手権の試合で、対戦相手アメリカに最初のうち負けていたユーゴ・チームの試合ぶりを、チトー大統領に見せないために、現場のテレビ中継で電波妨害の処置をこっそり施して試合が4分間テレビの画面から見えなくなるという場面がある。これは上映後の討論をしたボスニア出身の岡島アルマさん(外務省研修所講師)によれば、当時テレビ中継をベオグラードで見ていたが、このようなことはなかったと記憶しているという。しかし、チトーの機嫌を損ねないように周囲がピリピリしているところや、とんでもない命令でも上からの要求なら、現場ではあらゆることが想定され準備済みで、さっと動いて対応するという映画の中の描写は、このようなこともさもありなんと思わせる。
 映画の中では、この電波妨害に憤慨する4人組を前に、彼らの国外遠征に常にお目付役で付いてきていた軍服を着たストウクルという堅物の男がなんと独断で電波妨害をやめさせるところが、ドラマ的盛り上がりの一つとなっている。この人物もアルマさんによれば架空の人物だそうだ。しかしボラをはじめアツア・ニコリッチ、ネボイシャ・ポポヴィチ、ラドミル・シャンペルは本名で映画に登場し、いずれも世界バスケット・ボールの殿堂に祀られた名選手だそうだ。現在ボラだけ91歳で存命である。ユーゴではサッカーも人気があったが、バスケはインテリのスポーツという傾向があり、この4人はいずれも研究者などだそうだ。1930年にサッカーでユーゴが世界選手権に優勝した史実を基にした『モンテヴィデオ(Montevideo, Bog te video)』(2010年)という映画が旧ユーゴ地域で大ヒットしたので、本作はそれにあやかった企画のようだ。
 アルマさんによれば、解体後のユーゴは失業率も高く、生活が楽でない。若者はやる気を失っているが、1970年のバスケの勝利で沸いたユーゴを見て「夢を持てばかなう。夢を持とう」というメッセージがこの映画にはあるのではないかと強調した。また党のお目付役のいわば悪役だったストウクルも、人間的成長を遂げるという点を指摘した。
 次に討論に参加したバルカン史の専門家である柴宜弘氏(城西国際大学客員教授)は、映画の中で4人の選手を陰日向にサポートする政治家、ヴラディミール・デディエール(1914〜90)が実在の有名な政治家であり、パルチザン闘志、歴史学者であることに注目した。彼は1954年、反体制政治家ミロヴァン・ジラスを弁護したため失脚、たぶんそれが原因で2人の息子が自殺しているそうだ。映画の中では失職したデディエールの肩に秘書が泣き崩れる場面があるが、それはその時さらに息子の自殺を知った彼らという設定ではないかと思い、細部まで再現されていることに驚いたそうだ。デディエールは党の要職からは追放されたが教職は続け、パスポートも没収されなかったので、バードランド・ラッセルが始めた「ラッセル法廷」など国際的な平和運動にも参加したそうだ。
 沼野教授から映画の中で使用されている言語についての質問があり、柴氏は類似しているセルビア語とクロアチア語を一緒にしたセルビア=クロアチア語、それにスロヴェニア語、マケドニア語の3つが旧ユーゴの公用語であり、セルビアでマケドニア映画にはマケドニア語の字幕、スロヴェニア映画にはスロヴェニア語の字幕がついていたし、議会での発言もそれぞれ通訳がついていたと述べた。
 司会のリュブリャナ大学教授の言語学者アンドレイ・ベケッシュ氏が、中心になる4名はセルビア語、ネボイシャのクロアチア出身の奥さんはクロアチア語、当時はマケドニア人もスロヴェニア人もかなりセルビア語ができたので、マケドニアやスロヴェニアの選手が実際に喋っていたのはアクセントのあるセルビア語だったのではないかと思うが、映画の中ではスロヴェニア語やマケドニア語も選手たちが話しているという。しかし言語には地理的連続性があり、例えばスロヴェニアとクロアチアの国境付近では、スロヴェニア側で話されている方言は、クロアチア側で話されている方言とかなり近いという事実を提示して、多民族・多言語国家であった旧ユーゴの一面が映画に反映されていることがわかる。アルマさんは旧ユーゴ時代、相手が何系と意識せず単に「ユーゴ人」として話していたという。そういう意味でこの映画は、旧ユーゴにノスタルジーを感じる「ユーゴ・ノスタルジア」の表現されたものかもしれないと発言した。
 バルカン史専門家の山崎信一氏(東京外国語大学講師)は、ユーゴ・ノスタルジアは1990年代の戦乱の後に少し時間がたって出てきたが、2000年代以降のユーゴ・ノスタルジア映画では、民族共存が過度に理想化される傾向があり、旧ユーゴ当時民族対立がなかったわけではないことを指摘した。
 学生からの質問の中では、映画の中でチトーや政治家たちがかなりコミックに描かれているが、それは本作が作られる以前は可能だったのかというものがあり、柴氏は1980年のチトーの死まではそのようなことは不可能であったこと、またベケッシュ氏は1940年代後半のかなり行き過ぎた共産党政治時代についての風刺は、80年代にすでに『パパは社会主義の地主』(1987)などの映画で描かれていて、シネマ・ユーゴでも上映している(当コラム(5)を参照)ことを述べた。
 「シネマ・ユーゴ」では珍しいスポーツ映画であったが、スポーツ音痴の私もバスケについての名作でアメリカのドキュメンタリー『フープ・ドリームス(Hoop Dreams)(1994)や、また最近では今年のトライベッカ映画祭で上映されたブラジルのサッカーの大スターを描く劇映画『ペレ 伝説の誕生(Pele: Birth of a Legend)(2016)を楽しんだ体験がある。今回の上映では、バスケット・ボールの専門家の片岡秀一氏が観客として参加して下さり、報告を書いて下さった

マケドニアのパンク・バンド

 スポーツに並んでパンクについても私は無知である、身近にはない存在だ。今年もマケドニア映画を上映したくて、マケドニアの映画評論家の友人、マリナ・コストヴァに作品を推薦してくれるように頼んだ結果が、この『パンクは死んでない(Punk’s Not Dead/Pankot ne e mrtvo)』(2011)である。

マケドニア出身のヴラディミール・ブラジェフスキ監督(1955〜)によるマケドニア・セルビア共同製作だが、本作の製作にコソヴォも出資し、ポスト・プロダクションにはハンガリーとセルビアも参加している多国籍映画。使われている言語もマケドニア語、アルバニア語、セルビア語、英語など多彩だ。
 この映画の上映会場は上智大学比較文化研究所で、上映前に解説をした亀田真澄さん(東京大学助教)はまず、マケドニア(生誕当時はオスマン・トルコ帝国内のコソヴォ地方)のスコピエ出身のマザー・テレサを例に出し、マケドニアの民族的複雑さを強調、また映画内で主人公ミルシャが参加するコンサートが多民族主義を促進するという目的があり、かつての仲間であるセルビア人、ボスニア人とマケドニア人のハーフに加え、アルバニア系やロマの若者も新たに参加している多民族バンドを組む点を指摘した。
 ミルシャはマケドニアの首都スコピエに母と住む。父はだいぶ前に、別の女性とオーストラリアへ行ってしまって音信がない。ミルシャはかつてマケドニアで一番人気のあった(と本人の言う)パンク・バンドで演奏していたが、バンド解散後は仕事もなくぶらぶらしてアルバニア系の友人グジムと麻薬を売って生活の糧としている。グジムの願いで、17年前に解散したパンク・バンドを再結成してコンサートに参加することになり、セルビアやボスニアからかつての仲間を誘い、彼らはアルバニア国境近くのアルバニア系住人の多い町デバールへ向かう。
 途中の村で、ミルシャたちの車がアルバニア系の若者たちに囲まれ不穏な空気となるが、ミルシャのスコピエの友人のリャックが大事に持っていたペットの蛙のフェルディナントのおかげで難を逃れる。ようやくデバールに到着したミルシャたちを待っていたのは、コンサートが突然キャンセルされたという知らせだ。グジムは走り回って町の公民館を会場として確保する。町の住民が三々五々集まるコンサートはまったく盛り上がらず、それどころかミルシャたちは、血の気の多い若者集団に襲われて命からがら逃げる。
 スコピエへ戻ると、そのコンサートの様子をテレビ・ニュースで見た近所のサッカー・ファンのスキンヘッド集団に「よくもアルバニア人の前でコンサートをしたな!」「裏切り者」とミルシャたちは襲われてケガをして、フェルディナントは殺される。フェルディナントの葬式を営むバンド・メンバーの場面で映画は終わる。
 映画上映後討論に参加したマケドニア共和国駐日大使で映画研究者のアンドリヤナ・ツヴェトコヴィチは、本作はマケドニア語ではよく考えられた台詞の多い機知に富んだ風刺映画であること、また不景気で仕事がないマケドニア社会の若者の直面する現実が反映されているが、ミルシャはコンサートをすることで初めて何かを達成したという満足感を得ることができ、母親も「パンクは死んでない」という刺繍をしたスカーフをミルシャのために編んだりして、ミルシャのことをサポートしている点を強調した。
 無理やりグジムにバンド・メンバーとして押し付けられたアルバニアやロマの若者とも、ミルシャのバンド・メンバーは音楽を一緒に演奏することにより心を通わせ、パンク音楽というポップ・カルチャーの共通基盤が民族を超えて存在すること、それに比べて「民主主義、寛容、若者たち」を旗印にしていたコンサートが直前にキャンセルされてしまい、このあたり虚ろな言葉を提唱するいいかげんなイヴェント主催者の西欧人たちへの批判も感じられた。
 セルビアやボスニアへの旅の列車の中でユーゴ共産党時代の歌を彼らが大声で歌う場面や、アルバニア語の歌詞をバンド・メンバーが練習している場面など、その地域の文化独特のユーモアが笑いを誘うが、文化を超えて笑える場面もたくさんある。
 観客の中に若いマケドニア人が3名いて、それぞれ感想を述べてくれた。本作には社会の周辺にいるパンクや活気がなく荒廃した町の様子、民族対立などが登場するが、これはあくまでマケドニア社会の一つの側面であって、風光明媚な場所や民族が共存している場所もあるという意見に、アンドリヤナ大使は、わが意を得たりと「自分がそういうことを言えば政府の宣伝だと思われてしまうが、観客が言ってくれてよかった」と返し、場内の笑いを呼んだ。
 またマケドニアのアーティストのシモンさんが、蛙の名前の「フェルディナント」というのは象徴的で、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)で暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子の名前(フランツ・フェルディナント)を連想させること、また映画の最後のフェルディナントが埋葬される丘には大きな十字架があり、多額な金をかけて建立したことが問題になったなどの説明をしてくれた。

スロヴェニアの中の多民族コミュニテイ

 筑波大学東京キャンパスが会場となった今年のシネマ・ユーゴの第3作目は、『出て行け、ユーゴ野郎!(Chefurji Raus!)』(2013 )で、ゴラン・ヴォイノヴィチ監督(1980〜)自身が書いた同名の自伝的小説(2008)を基にしたスロヴェニア・ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・クロアチア合作映画だ。

司会のイエリサヴァ・ドボヴシェク=セスナ氏(東京外国語大学講師)は、旧ユーゴ時代から経済的に進んでいた北部のスロヴェニアに、南の共和国からよりよい生活を求めて移民が渡ってきた南北問題に触れた。
 本作はスロヴェニアの首都リュブリャナの郊外にあるボスニア、セルビア、マケドニア、モンテネグロなどかつての旧ユーゴを構成していた南の共和国出身の人々の団地のコミュニティが舞台だ。主人公の高校生のマリオは、ボスニア系両親の元にスロヴェニアで生まれた第二世代で、バスケット・ボールの選手である。やはり第二世代である団地の仲間3人とつるんでいるところを、スロヴェニア人の警官に理不尽な逮捕をされるという差別にも直面している。マリオは家では父親と衝突し、母親を心配ばかりさせている。彼ら若者のフラストレーションが爆発して事件を起こし、マリオは父親のボスニアの故郷へ逃がされるところで、映画が終わる。
 三十代の監督作品だけあり、本作には若さが溢れている。手持ちカメラで捕らえられるイメージは不安に満ち、スロー・モーションやカットの早いペースの切り替えで若者の躍動する心情を訴える場面は、ミュージック・ビデオ世代のエネルギーに満ちている。マリオが「マデイソン・スクエヤー・ガーデン、ブラッドリー・センター…」と世界有数のバスケット・ボール試合会場の名前をつぶやく場面があるが、自分は到底そんな場所では試合ができるはずがないという、あきらめと閉塞感がまざまざと感じられる。そして目標を持てず、狭いコミュニティから出ていけないフラストレーションがマリオたち若者の怒りとしてひしひしと感じられるのだ。
 映画の最後も忘れがたいイメージを残す。父のボスニアの故郷ヴィソコの人けのない駅に降り立ったマリオは、駅の近くにバスケット・ボールのフープ(輪っか)があるのを見つける。田舎の町らしい、慎ましいフープである。それを見つめてマリオは手でボールを投げる仕草をし、その後すぐに道の石を取り上げてフープに向かって投げ始める。そこには懐かしい馴染みのものを見つけたマリオが、孤独ではなく、彼はバスケット・ボールをまた続けるだろうという希望のイメージが感じられ、マリオにジャンプして外の世界に出て欲しいと、私も願わずはいられなくなった。
 本作は日本語字幕付きの上映となったが、スロヴェニア語部分の字幕作成を担当した三田順氏(北里大学講師)が映画の背景や監督のキャリアの紹介をした。またセルビア・クロアチア語(スロヴェニア語と区別するために日本語字幕はイタリック体になっている)を担当した山崎信一氏は上映後、スロヴェニアの少数民族コミュイテイ特有の問題に触れた。
 山崎氏は本作における移民の体験としては、フランスにおける北イタリア出身者、ドイツにおけるトルコ出身者などと共通したものがあり、その意味でスロヴェニアは西欧と言えるだろうとする。移民たちは郊外の団地に住み、スロヴェニア人から差別を受けている。しかし第一世代と第二世代には差があり、スロヴェニア生まれの第二世代は言葉ができ、マリオのように見かけはスロヴェニア人として見られても、苗字などから南出身とわかっただけで差別されるという実態がある。
 しかしスロヴェニア特有のところは、キリスト系とムスラム系ボスニア人も、クロアチア系もセルビア系も、旧ユーゴの各地で対立している人々が、移民社会では共通文化を一緒に享受して集まっていることが、映画の最初の祭日の祝いの場面でも示されている。その場面で歌われる歌の歌詞はマケドニア娘のことで、マリオはキリスト系ボスニア人、友人のアデイはムスラム系ボスニア人である。
 マリオの父は自分の苦労を息子にはさせたくないと願っているが、一般に移民はサッカー、スケートなどスポーツ世界で実際に成功している人が多い。本作の主人公マリオも、バスケ選手として有望である。しかし彼の大活躍でチームに勝利をもたらしたものの、不当にコーチに非難されたり警察に逮捕されてくさってしまう。スロヴェニア人になれないという第二世代のあきらめとフラストレーションも、本作で描かれている。
 また旧ユーゴからのスロヴェニアの独立は、戦乱となったほかの旧ユーゴ共和国と比べて順調だった。しかし独立後、スロヴェニア在住の他の共和国出身2万5千人が国籍を取得しなかったので、永住権を失ったという興味深い点も山崎氏は指摘した。
 その後、スカイプによりリュブリャナ在のヴォイノヴィチ監督と質疑応答が行われた。題名にある「Chefurji(チェフリ)」は南から来た移民に対する蔑称で、「raus」はドイツ語で「出ていけ」の意味。この二語がスロヴェニアでは落書きでよく見られると、映画の冒頭に字幕で出てくる。この「チェフリ」という言葉がどのように使われているのか、ドボヴシェク=セスナ先生が質問した。監督は答えて、自分もボスニアとクロアチア系であるが、「チェフリ」とは南の共和国からスロヴェニアに移住した人々のことで、元来蔑称として使われていた。しかし自分が子どもの頃と今ではニュアンスが違ってきて、最近チェフリの若者の間でお互いに「チェフリ」と親しみを込めて呼び合ったりして、この10年日常会話でポピュラーな語彙となってきて、サブカルチャー的価値も見出されて多義性を持つようになったそうだ(このあたり、「ニガー」という言葉は元来蔑称なので、白人が黒人に向かって絶対に使えない言葉だが、黒人同士が親しみを込めてお互いに「ニガー」と呼び合うことがあるアメリカの場合と似ている)。自分は「作家」とか「映画監督」という自己定義ができるが、映画の中にいるチェフリの若者たちは肩書きや自己定義をほかに持たず、「チェフリ」としてのアイデンティティしかないのだが、自分で使うか使わないか選択できると監督は語った。
 次に私が、小説を基にした映画ということで、例えば登場人物のモノローグが多いのは小説を基にしているスタイルと思われたが、文字から映像表現にどのように変化したのか、映画版で変えたところがあるかどうか質問をした。監督によれば、映像としてこの作品を最初から考えていたので、まず脚本を書き始めた。しかしそれが映画化できず小説として最初に発表して、そのあと映画化されたが、映画ではドラマ的表現を強調したと言う。例えば両親と息子の関係など、どの国の人でも共感でき多くの人々に理解されるので、そのような点を強調した。小説でも映画でも別のかたちで政治的な要素が強いと思うということだった。
 山崎氏が、この映画はどこまで自伝的なのかという質問をした。監督は、自分の父はマリオの父のようにボスニアのヴィソコ出身で、映画の最後の場面で通りがかる少年は自分の親戚だが、マリオは自分そのものではなく、自分の隣人たちの体験を基にしていて、彼らが社会に適応できないことを描きたかったと言う。
 三田氏はヴォイノヴィチ監督の二作目の小説『ユーゴスラヴィア、我が故郷』が現在映画化準備中だというが、それについて質問した。監督は、この作品は現代ではなくユーゴ時代のことで、登場人物も多く資金が必要なので、映画製作作業がより複雑になり、準備にも苦労していると言った。戦争の話なので、あと10年ぐらいすれば観客側にも歓迎される土壌がでてくるかもしれないとのことであった。
 バルカン史専門の柴氏は、監督の父の故郷ボスニアについてどう思うかと質問。監督は、実際に行ってみて民族間闘争が続く失望の地という印象を受けたという。セルビア系、クロアチア系、ムスリム系の三者とも現状を変えようとせず、他人を非難するばかりで、怒りや恐れが残っていて普通の生活に戻っていないばかりか、将来がない地となっていると言う。
 柴氏はさらに「ユーゴ・ノスタルジア」についてどう思うか尋ねると、監督は、ボスニアに育てばマケドニアやセルビアの大部分、クロアチアの一部の人たちと同様にユーゴ時代はよかったと思うだろう。経済が停滞しているので彼らは以前がよかったと理想化していると言う。映画の中でもマリオの父が、ユーゴ時代はよかったがそれには戻れないという台詞を言っている。
 こうして今回は、旧ユーゴの多文化社会、多民族共存の問題に触れる映画がそろったが、この問題こそ現在世界が直面するものであり、シネマ・ユーゴも今日的に意義のあるプログラムになった。

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