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あの日の畑を、あなたに

GW。祖父母の家の裏にある、大きな畑の草を抜いていた。
祖父母が老いてきて、あんなに好きだった畑仕事は難しくなり、裏の畑は以前の豊かな姿からは考えられないほどさみしくなっていた。

もう、ここに何かあたらしい苗を植えることはないのだ。だから、草を取っても仕方ない。それに今草を片付けても、GWが終わり私が去ってしまえばすぐにまた草は生えてくる。
けれど、どうしても畑をきれいな姿にしたかった。きっと今の畑を見れば、ばあちゃんは直接言葉にせずとも悲しい顔をするだろう。

ばあちゃんは、雑草が生えだす少し前に亡くなった。

草を取ること自体が、自分の感傷なのはわかっていた。
でもどうしても元の、採りきれないほどいろんな野菜を植えていた、緑のまぶしい畑を見せたい。せめて、その準備をしているんだよ、ここでまた畑をつくろう、と見せることができたら。

人間はみんな老いていなくなる。けれど、自分のうちに関しては、それはもっと遠い未来のことだとどこかで思っていたことに気付く。
たくさん一緒にいたつもりだけれど、もっとそうすればよかった。でもこんなにも大好きであること、きっと知っていたよね。

あんなに何種類も、おいしくて美しい野菜はどうやって作るの?テーブルに並びきらないほどたくさん作ってくれた、あの料理たちの作り方は?
思っていた以上に、たくさんの手間と心をかけてくれていたことを実感する。今さらになって。


なくなる直前に入院していた病院へお見舞いに行ったとき、ばあちゃんは夢を見ていたらしい。話しかけると、夢と現実が混ざりあって
「今、運動会さ行がねばまね(行かないといけない)。あっこ(あっち)に、はっける(走る)ふと(人)・・・」

体が弱くて病気がちだったばあちゃん、会いに行くといつも「体さ気ぃつけれ」と言ってくれたものだった。夢の中では子ども時代に戻って、健康で、たのしい気持ちになれたかしら。
いつもみんなの心配をしてくれていたから、今は子どものような気持ちで、安心して休めているといい。

先に向こうに行った人たちには会えたのかしら。
残された私たちはもしかしたら、ばあちゃんと長いこと一緒にいる時間を持てた分、先へ行ったみんなへばあちゃんと一緒にいる権利を渡すときが来た、ということなのかもしれない。

お盆やお正月、祖父母の家から帰るとき、ばあちゃんはいつも「いっどぐな(あっという間)だな」とさみしそうにしていた。
今回も家を出るとき、その声を聞いた気がした。

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