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何もしたくないのが本音

普通の社会人よりかは時間に余裕があるので(金は無いが)、毎日のようにそちこちのスーパー銭湯の温泉やサウナを訪ね回ったり、ラーメンを食べ歩いたり、カメラ片手に知らない町を彷徨ったり、それらの行動を逐一インターネットに晒したりしている。

しかし、いま自分のしているそれらの活動が本当に「やりたい事」なのだろうかと問われたら、それは甚だ疑問だ。
サウナ、写真、読書、ブログ、ゲーム・・無趣味人間なりに色々と手を出してみるけれど、どれもが寝食を忘れてまで没頭するような「大好きな趣味」「生きがい」(嫌な言葉だ)にまではなってはいない。
せいぜいが「暇つぶし」程度の「好き」でしかないのではないか、などと時々思いながら続けている感じだ。

さらには「無為な時間を埋めなくては」「何か有意義なことをしなければ」「そう長くもない残りの人生を少しでも充実させなくては」「何か生産しなければ」・・と、せき立てられるように無理くりにやっているところがある。
無理くりでも「今日も何かを積み上げた」という何かしらの実感があれば、寝つきが良かったりするのだ。

しかし一体、誰に頼まれた訳でもないのに、趣味だの推しだの生産だのと、死ぬまでこんな事を繰り返し続けて右往左往するのは人間くらいのものだろう。
何というか、大脳にプログラムされた動物的な本能だけが「本当にしたいこと」で、あとは全部、取って付けただけの理屈なんじゃなかろうか。
大体、この頃の巷で云う「好き」も怪しいものだ。むしろ「嫌いだ」「やりたくない」という感情の方が(本能的には)シンプルで正直度が高いように思える。

人間だけが言葉で思いを綴り、手を使ってものを創る。そこに人々は実に様々な理由を付けるから、小説や映画は生まれ、ラブソングは売れるのだろう。
好きも(嫌いも)、やりたいも(やりたくないも)、幸せも(不幸も)全ては思い込みである。思い込めばいい。思い込みたい。

最近、同人誌のようなブログを始めました。寄稿してくれるメンバーを募集してます 🐤

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