見出し画像

自家用車と父親、生まれた街について〈エッセイ〉


生まれた街について話すことはその街の匂いを確かめるようなものだ。

22年前の8月11日、私は夏に北海道の旭川市で生まれた。いちばん古い記憶は0歳の冬に見た札幌雪まつりで、原風景があるとするならば、この日の雪景色といえる。次の春には秋田へと引っ越し、その後またすぐに千葉へと越したので、北海道に居た頃の記憶はこれしかない。2年前まで住民票を北海道に置いていたが、その場を去って20年が過ぎたので、父親を除いた家族の住民票を千葉へと移した。それに伴い、車のナンバープレートも旭川から千葉の地元へと取り替えて、今年、自家用車を買い換えようとしている。母はよくパールホワイトのエスティマを、産まれた年に北海道で買ったからあの車は貴方と同い年なんだよ、と言って聞かせた。
エスティマと共に北海道から秋田、それから千葉へと渡ってこの街に来た。父親が他界してからの2年間、運転席には父に代わって母が座り、助手席はずっと空席のままだ。

8月18日に父親の三回忌を迎えて、あれからもう2年経ったのか、と思った。家族の光景と言われて思い浮かべるのはいつも運転席の後方から眺める父と母の後ろ姿で、私はその背中に安心を預けて様々な場所を訪れたのだった。法要のあと、軽自動車の代金を支払いに銀行へ寄って手続きを済ませる。数週間後にはこの車を手放して、リビングからよく見える庭の駐車場には新しい車が並ぶのだ。そういえば来月の初めには北海道へ行く、生まれ故郷に帰るのは22年ぶりのことだ、もしかしたら、と思って、その日に8mmのカメラを買った。一本当たり3分20秒のフィルム2つを大切に使って、千葉の地元に帰ったら現像しよう、と思った。

暑さのピークが過ぎて肌寒さも覚える9月の早朝、先に空港へ着いた友人と待ち合わせをし、手続きを済ませて機体に乗りこむ。
格安航空の機内で、耳の上を滑るだけだったポップスの歌い出しが「出来るだけ嘘は無いように どんな時も優しくあれる様に」と歌っていて、その先を耳で追おうすると、ひどく音割れした機長のアナウンスが響いた。
「うるさ過ぎる!」と友人が言うから、「確かに」と返して、「本当にあり得ない!」と言われて「そうだね」と言った。他人の言葉が身体のどこにも浸透せず、私もまたそのように返して、会話が宙に浮かんだままになる。飛行機が離陸して、鼓膜が膨張するから何も聞こえなくなる。しばらくはこのままで良い、と思った。

新千歳空港に着いてから札幌駅へと移動する。時計台やテレビ塔を見てまわって、それ自体には何も感じなかったが、街からはどこか懐かしい匂いがした。やたらと鳥の多い街だな、と思ったが、旅先で空を見上げているのと、近くに沼や湖があるので当然のことだった。
2泊3日の旅で、2日目は小樽へ行った。海と隣接した公園で小学生くらいの少年や少女が遊んでいて、彼らは駅を越えたすぐ向こうにある山から降りてきて海のそばで遊んでいるのだ、山の斜面に立ち並んだ曲線の滑らかな屋根を持った家屋で、冬の間はどう過ごしているのだろう、と思ったけれど、冷たく厳しい海沿いの街の冬などは想像できない位に波が穏やかだった。
いつかの喫茶店で誰かが頻りに口にしていた「幸せになりたいだけなんだけど」と同じく、口癖の様に、「優しくなりたいだけなんだけど」と私は言い続けるのだと思う。それは小手先の振る舞いの様な話しではなくて隣人への穏やかさの様なものなのだから、簡単には手に入らないと知りながら、それでも。

その日の夜は旅館に帰って備え付けの温泉に入る。もうすでに閉館の時間が迫っていて退室を促す音楽がかかっている。湯船の熱がジワジワと浸透して、1メートルくらいだった自分の直径が湯船全体へと広がっていく。蛍の光を聴いて、私は決別の予感を持ってこの街に来たのだ、それは子供時代の、父親や自家用車や北海道のこの土地にまつわる思い出との一つの区切りであり、この旅行を終えて千葉の地元へと帰ってしまったらこれまでの時代を終えて次へと向かっていかなければならない。正しさや優しさだけで革命は起こせないけれど、現在の私はそれすら人よりも足りていなくて、自分の欠陥を埋めるだけの手段には手を出し尽くしてしまったように思えて、これだからあの人やこの人に嫌われるのだ、けれど私のことを鋭い目線で見つめて欠陥を指摘するような他人も居なければ、先に言ったように他人の言葉が身体に浸透するようなことなども滅多にないので、これからの私のことは私が見つめ続けるしかないのだ、と思った。
蛍の光の音が徐々にフェードアウトして、その音量とは裏腹に退室を促す意図をうるさく感じて、身体の熱も篭ってきたから、と退室する。明日には千葉へと帰る。落ち着いたらこの旅をまとまった文章にしよう、と思いながら眠りについた。

3日目は札幌からバスで1時間のモエレ沼公園に行った。前に沼をみたのは千葉の印旛沼で、父親が「渡り鳥は沼や川を経由して暖かい時期を北で過ごし、寒くなると南へと飛び立つのだ」と話していたことを思い出した。当時、流行の鳥インフルエンザを秋田県で研究していた父は、それ以降はバードウォッチングにはまり、専門の山や川をはじめとした動植物に加え、鳥についてもよく話してくれた。
モエレ沼公園を後にして空港に向かう。搭乗手続きを済ませた後に関東へ台風が接近している、と知らされた。飛行機は1時間半の遅延を見込んでいて、予定通り日付を超える前に地元へと帰ることはできないようだった。

空港で一晩を過ごして地元へと帰った。やっとのことで辿り着いた最寄り駅で電車を降りると、風が吹いて、季節が秋へと移り変わったのだと分かった。どうしようもなく安堵を感じて、私の地元は間違いなく千葉県のこの街なのだ、本当は来年の春には東京へと越すつもりだった、それは多くはない地元に住む友人が就職やらでこの場所を離れてしまうからだったが、私にはまだまだこの場所で向き合うべきものがある、もう少しの間、ここで暮らさなければ、と思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?