光を観にゆく
6月ですね。
これを書いて居る今は、深夜の2時。
相変わらずの変則的な睡眠リズムで笑っちゃいますね。
笑いながら、新しい月に入ったことを寿ぎたくてPCを開きました。
5月は本当にバタバタとしたひと月で、びっくりするくらい生きてるって感じがしていました。
「生きてる」なんて大きな言葉、あんまり使わないんだけど、使ってもいいよね、っておもえるくらい、生きていたとおもいます。
ご宿泊のお客様が多かったことはもちろんのこと、自分のやりたいことを目いっぱいやり切った。
けっこうバタバタとして、余裕がなくなるときもあったけど、仕事にしても遊びにしても、自分が選んだことだから苦にならなかったなぁとおもいます。
若い時は、痛みをだましだまし暮らしてきました。
でもその痛みの原因は、自分に嘘をついていたからだと今ではわかります。
よく、やりたくないことを我慢してやることは自分に嘘をつくことです、なんて言われるけど、やりたいこともやりたくないこともやってみるからわかることが確かにあって、そこからの学びに助けられることが山ほどあった。
そんなことよりも、痛いのに痛いと言えなかったり、進みたい方向を選ぶことに罪悪感を感じたりすることの方がよっぽど傷になって、あとあとまでわたしを苦しめました。
今は痛ければわぁわぁ泣くし、誰に悪いとも思わずに自分の好きな道を選択することができる。
なぜそれができるようになったのかはわからないけれど、一つにはそんな自分の居心地の悪さが沸点に達したからかなとおもいます。
明確な痛みよりも、よくわからない気持ち悪さの方が、ごまかしようがないのです。
ごまかせないのなら、失くすしかなかった。
なにかを得るためではなく、失くすためになにかを選びとることもまた、生きることと同じなのだと知ったのは、瀬戸内に来てからです。
そんな今日は、馴染みのお客さんと小豆島を観光しました。
〝観光〟という言葉に嫌悪感を持つひとたちもいるようですが、わたしは好ましく感じてよく使います。
その土地に宿る光を観にゆくこと。
観る、には本質を見つめる、という意味があります。
どんな場所もよく観てよく識れば、そのひとの光となって、ほんとうに大切なものを悟らせてくれる。
言葉のひとつひとつには、大きな意味合いが含まれていますが、言葉に縛られることなく、直く明るいきもちで、目の前に現れる世界を見つめつづけてゆきたいなとおもいます。