1.境界の縁側で
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今日は朝から台風の影響で民宿も休業状態。
朝食を食べて少し作業して、ちょっと横になったらお昼まで眠ってしまいました。
曇り特有の仄白い光のなかで目を覚ました時に、あ、昼夜逆転になってしまう、とおもう。
その瞬間、ほんとうにふっと思い浮かんだのが、i 病院で出逢ったAくんのこと。
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神楽坂からほど近い i 病院は割と軽めの半閉鎖病棟で、許可さえもらえば院外へ散歩にも出かけられる、軽度の精神疾患の人が多かったようにおもいます。
わたしの主な症状はいわゆる摂食障害で、その時(26歳当時)は拒食と過食嘔吐を繰り返していました。
食べたくない時は徹底的に食べない、食べ過ぎたら自分で口の奥に手を突っ込んで吐く、という行為を繰り返していて、でもストイックな拒食期は過ぎていたから、最低体重の28キロからずいぶん増えて、体重は48キロほどはあったとおもいます。
ただ、摂食あるあるかもしれないけれど、身長160㎝48キロでも、自分がとてつもなく太っているように思えてしまい、いつだって自分のことを嫌いだったし、それでいいと思えたことなんて一度もありませんでした。
そのうえ、不規則な食生活や不安定な精神状態もあって、きちんと働けていなかったから、それも自分を肯定できない原因の一つとなっていました。
自分のことが気に入らないから、刃物で自分の肌を切り裂く。
自傷行為も日常的にクセになっている時期で、鞄には薬、カミソリ、包帯の3点セットがいつも入っていました。
明らかに普通ではないわたしに、内科の先生は精神科も併設している i 病院を紹介してくれたのでした。
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精神科に限ったことではありませんが、病院という施設には各フロアにデイルーム(談話室)なるものがあるようです。
病室で息が詰まるとき、ちょっと広いところに出たいとき、すこしだけ人恋しくなる時、家族と面会する時などはデイルームを利用することが多いとおもいます。
誰ともしゃべらなくても、そこに行けば誰かしらがいるという事実が、わたしは好きでした。日当たりの良いその精神科のデイルームは特に、独りじゃないと思えて好きだった。
そのデイルームにいつの間にか蜃気楼のように現れたのがAくんでした。
いつものように本を読もうとおもってデイルームに行くと、わたしがいつも座っている席にモジャ毛で色白の男の子が座っていました。
分厚い本を目の前に置いて、前のめりになって真剣に読んでいる、とおもったら、前のめりになって眠っているだけでした。
よくわかんないけど、ちょっとオモロイ。
わたしは向かいの席にそっと座って、自分の本を開きました。
小一時間経った辺りで、男の子がおもむろに頭を上げました。
「やべ、寝てた」
それが、わたしが聴いたAくんの第一声。
目の前にいるわたしにはさほど驚かず、なぜか言い訳めいた言葉をつぶやき始めました。
「あ、いや、オレ、昼夜逆転を治しにこの病院来てるから、昼間寝ちゃヤバいんスよ」
Aくんは小中学生の頃、学校に行かずにPCゲームばかりしていたら、別に夜勤でもないのに昼夜が逆転してしまったそう。
別にずっとそれでもよかったらしいんだけど、やりこんだゲームやPCの知識のおかげで、親戚が経営しているIT会社に入社できる運びとなったらしい。その時に大問題となったのが、昼夜逆転生活。
その会社は普通に昼間勤務の会社。当然きちんと朝起きて出社し、日中業務につかなくてはならない。
「オレ、PCとかプログラミングすげぇ好きだし、好きなこと仕事にできるならいいなって思って。チャンスだから。」
彼の前に広げてあった分厚い本は、難しそうなプログラミングの言語の本でした。
それをいとおしそうに撫でながら、彼はハッキリ言いました。
「オレもそろそろ〝普通のひと〟になろうと思って。」
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それからわたし達はお互いの入院生活中にデイルームで色々な話をしました。
お互いの年齢のこと。
(わたしよりも8歳若かった)
育ってきた場所のこと。
(Aくんは神楽坂のタワマンに住んでた)
好きな食べ物のこと。
(チャイとブラウニーで意気投合)
好きなアーティストのこと。
(ELLEGARDENはAくんに教えてもらった)
お気に入りの場所のこと。
(A君のお気に入りは東京ドームとカナルカフェ)
お互いに外出許可をとって、ドームのまわりを散歩したり、神楽坂でお茶を飲んだり、恋人みたいに仲良くしました。
年はちょっと離れてたけど、お互い穏やかな性格で、得意分野が正反対だったため、お互いに興味の対象として面白い存在だったし、実際惹かれ合っていたのだろうとおもいます。
Aくんのほうが先に退院しましたが、そのあとも頻繁に面会に来てくれました。
わたしの病気は、ひどくなる一方でしたが。
忘れられないのは、ある日面会に来た時に、わたしの両親に「わこちゃんはきっと治るから大丈夫です。わこちゃんのことを絶対にあきらめないでください。」と泣きそうになりながら頼み込んでくれたことです。
実はその頃は、わたしの両親曰く、わたしの病にお手上げ状態で、どうしていいかわからなかったそうです。
吐いたり切ったりを見なくていいから、ひとまず病院に入ってくれていれば安心だと思っていた、と後から聞きました。
あの時の自分のキチガイっぷりを思い返したら、両親がわたしを病院に入院させた気持ちに首がもげるほど頷けます。
でも、Aくんにとってその言葉や行動は、厄介払いにも似た、薄情な対応に思えたのかもしれません。
だから、彼は言いました。
見捨てないでくれ、と。
娘の未来をあきらめないでくれ、と。
それは、いつかのAくんの願いだったのではないかとおもうときがあります。
あんなにも様々なことを話したにもかかわらず、Aくんはご両親の話をひとつもしなかったし、Aくんとその病院にいた4ヶ月間、彼の家族はだれも面会に来ていなかったから。
Aくんはムダに年を重ねたわたしより、よっぽど大人で、素直で、つよいひとでした。
5
その後、わたしも退院して、お互いの場所での生活を続けてゆくうちに、自然と音信不通になりました。
わたしは通院の帰りに、カフェでチャイを飲みながら、
「そっか。きっと、Aくん、〝普通〟になったんだな。」
とおもいました。
そのことをひどくうらやましく思い、そして少しさみしくおもいました。
ほんとうに蜃気楼みたいなひとだったな。
どこかでしあわせに笑っててほしいな。
今でも思い出すたびに、そう祈る。
記憶の中のあのデイルームの陽の光が、幻みたいに頭のなかに溢れます。
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