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他車を顧みない圧倒的な事故

OLD KING IS DEAD.
それもこれも雑魚の思考だ。

本記事の内容は、呪術廻戦253話までのどうでもいい個人的な苦情でしかないのですが、あまりにも書きたくなさすぎて書く事を思い立った246話から様子見を繰り返した結果、週刊連載の性質上まとめようとする前に次の回が来、三か月も経って整理もつかず、完全に賞味期限が切れてしまった模様、ただこれを片付けない限り一生他の事も書けないだろう。この記事を最後に今後これ以上呪術廻戦に言及しないことを勝手に誓います。

昔から、キャラクターが死ぬ話しか楽しくなかったのだから。主人公もヒロインも動物も平等に。それを週刊少年ジャンプという土俵で叶えてくれる漫画という欲望をもしかしたら求めていたのかもしれない。だが、期待以上の終わり方をした作品を好きになることがあっても、好きな作品が期待以上で終わったことは一度も無い。神さまの言うとおりを除いて。ヒロインレースを当てた五等分ですら大した結末ではなかった。自分じゃない誰かが作った物語に勝手に期待をかけて勝手に幻滅する不毛な真似をいつまで飽きもせず続けるのか? パクリ、矛盾、整合性の無さ、粗、逆張り、そんなことは個人的には大したことではない。元ネタ知らんし、知っていたところで呪術廻戦レベルの漫画は到底自分に造り出せるはずもない。2020年代の週刊少年誌のバトル漫画としては世界設定の洗練度と王道のスケール感で他に比較対象となる作品もないだろう。ただまあ……どこにでもいそうな売れない中年芸人がオリジナリティ―ゼロの陳腐な回想し、呪術素人が術式チートだけで無双して、千年生きてきた人生経験豊富のラスボス候補があっさりそういうなんの面白味も無いポット出のキャラクターに感化されて死に、『私は貴様と違い生きてきたんだ、千年続く!!竜戦虎争!!合従連衡の!!呪いの世界を!!!』というかつての名言が台無しになった回はさすがに、もしかしてこれホンモノのクソ漫画か!?と薄々察しはした。とはいえ元々似非科学、クソ漫画の概念そのものともいえる所謂呪術構文が妙に頭に馴染み、渋谷事変の宿儺様の漏湖へのありがたい御高説で呪術廻戦という漫画自体を好きになったこともあり、なんか作者の贔屓キャラっぽいし最低宿儺さえ最後までかっこよく描いてくれればまあいいかという唯一の期待を捨てかねていたところ、普通にスックンも解捌の威力激落ちの怒涛のサイレントナーフ、イノタク一人瞬殺できず、ポット出の素人の才能に千年生きてる呪いの王が精神的敗北を喫し、五条悟に勝って挽回した格も急転直下で失い、優遇なんて別になかったのを理解した。宿儺が五条を潔く殺した回によって漫画への惰性ではない関心を抱いたのに、その後はメインキャラの死もサブキャラの死も誰一人として確定しない。皆殺しを宣言しようとも、乙骨一人仕留められない、誰一人として殺せない。殺る時は殺れよ! 呪術素人の天才の投入とたった一カ月での唐突な強化によりこれまでの漫画の全ても無意味になり、気の抜けた空気感は延々と続く。にも関わらず、煽っておいて才能が足元を掬われるレベルに達したら即殺して若い芽を摘むいい意味での宿儺の小物感とか(次の回で下手すりゃまだ生きてそうな挙句宿儺自ら死への落胆を言及したことでこれは台無しになった)、五条が十分削っていたなどといった後出し情報により微妙に宿儺の格落ちにフォローが入り続け、一カ月強化にもチートの使用が示唆され、伏黒でほぼ唯一のまともな感情描写を入れてくるなどのことで、失望と少しの期待持たせがほぼ交互に来るために、決定的に萎えているのに完全に切り捨てることもできない。五条が死んでから三か月で萎え、その後三か月様子見を繰り返し続けていた。

その246話ぐらいの頃に考えていたのは、天才と努力の書き方に関しての不満だったが、これは回が進んで既に賞味期限の切れた内容になった。
呪術が才能偏重の世界というのは最初から書かれていたし、それはこの漫画の美点だろう。しかし髙羽と日車に関してはいくらなんでも努力を蔑ろにしすぎじゃないでしょうか。そもそも競技人口の少ない世界である呪術で、人為的に呪術師を量産すれば、これまでの天井を用意に破る者が複数出てくるのはむしろ筋が通っている。ただそれは将棋や野球、フィギュアスケート、またはAIに仕事を奪われる絵師、あるいはMCバトルに増殖するフィメールといったような、決して漫画でまで観たくない現実でしかなかった。史上最強の呪いの王は所詮千年前の老害であり、髙羽と日車のいない時代に生まれた凡夫に過ぎないのか?そう、OLD KING IS DEADなのか。
また、一カ月で味方戦力の全員が呪力と守りを強化したことになったが、そんなことができるならなぜ今までやらなかったのか? 虎杖の呪力操作が器用なことは元々提示されていたとはいえ一年足らずで反転術式まで覚える大盤振る舞い=インフレへの落胆。直哉や真人がどれほど成長を模索したところで所詮呪霊としての天井しか用意されていなかったのに。この有様では一応天才と他称されわざわざ覚醒シーンまで用意されたはずの伏黒の努力も完全に道化である。何年かけても式神の6割しか調伏出来ず当然反転も展延もなく、想像力に由来したレベルの低い領域展開があるとはいえ黒閃経験が無いから呪術の核心も知らず、何の芸もない自爆技が実質奥義で、宿儺も結局日車のような真の天才の才能を普通に評価する。宿儺が術式のほぼ全てを完成されたことだけでなく、そういった描写の全てが今までの努力や成長など全部無駄だったんだなと思わせる。そういった道化の悲哀をキャラ性として描き切るというならそれにも意味や価値があるが、それほどの熱量も恐らく無いだろう。
当時はこういったような文句があったが、日車が即退場したことでいくら天才でも開花しきる前に死ぬことがあるという現実の示唆、一カ月強化は恐らくチートを含んでいるものという言い訳により、それなりに解消された。日車と髙羽の人間性にポット出を許容できるほどの魅力を感じなかったという点も多分に不満に含まれていたと見える。まあ、どっちもまだ生きてそうなのが懸念。

具体的に列挙はしないが、そんな語彙を平気で使える程度の言語感覚でどうやって文章の美しさを語れるんだよと思う単語が自分の中にいくつもある。『積(ん)読』とかもそう。そういう訳で、やってる感で散財した書籍は溜まっていき、映画どころかアニメの一本も何カ月も観れていない現状、日記の一行も儘ならず。一方、何を読み、見聞きしたところで結局ほとんど記憶に残らないのだからという諦念もある。ある瞬間にある一節を思い出してネットに書き込みたくなるレベルで魂に刻み込まれるに至らないのならばそれほどの金と時間費やした結果は何になろうか?
これ前にも言った気がする。

少し前にBLEACHの千年決戦編をアニメで見た時、バンビエッタだけが好きだった。単細胞故に良くも無いが裏も無い性格に正統派美少女のビジュアルが嚙み合っていたし、無差別爆撃のシンプルな強さがいい。今までも今後も噛ませの無様堕ちのことしか語られないのだろうけど。NIKKEのニヒリスターも、昔の宿儺のイメージに似ていて唯一好きなキャラクターと言える程に好きすぎるキャラクターストーリーではあったが、性能も大したことなければ汎用性に至ってはほぼゼロ、大多数のプレイヤーにとっては噛ませの無様堕ちキャラでしかないだろう。かくいう自分もバッテリー強化を差し置いてまでニヒリスターのロビーやプリズムを入手することはおそらくしないのだから。またあるいは、エミリアの容姿や立ち位置自体好みでないのを置いても、心根などという環境と遺伝子の結果でしかない恣意的な物差しをさも正当で優れた判断基準かのように振りかざし他人様の人格をジャッジして良い悪いと価値付けをすることが不愉快だった。アニメの範囲しか観ていない為、原作では既に通過した話を蒸し返しているだけかもしれない。何も知らない。みんな死ぬ話が好きだった。いつもいつも、敵の方に勝ってほしかった。

身の丈おじさんと化した今のスックンは実際に、今の言葉の重みおじさんに似ている。
宿儺のキャラクター性に関する疑問は、現在進行形の苦情である。
個人的な好みとして宿儺が死ぬなら裏梅に失望されるとか、万の『後生大事に使ってね』の縛り違反で弱体化するとか、鹿紫雲のX線で致命傷を負っていたとかそういうのがよかった。
宿儺のかっこよさは渋谷が頂点だったとは言われるが、鹿紫雲戦までのキャラクターならまだ全然よかった。ハニトラもするし根っからのイジメっ子マインドやありがたい人生論をご高説されるのがお好きなようで同窓会できる友達も何人かいて昔地元で有名だったヤンキーのオッチャンみたいなしょうもない人間臭いノリ・情緒を併せ持ちながらも呪術の研鑽に関しては本気でキレた包丁みたいに躊躇も遠慮もなく予測不能の即殺の暴力を振りかざしまくる。良いキャラじゃないですか。それが今はもう錆びたカッターじゃないですか。前のスックンなら髙羽のギャグ術式など一顧だにせず切り捨てて終わりそうなものなのに今それができるようには見えません。
他を顧みない圧倒的な自己とはなんだったのか。あるいはそれは烏鷺が言っているだけで本当は唯の身の丈で生きているにすぎないから最初からそんなものはなかったのか。
虎杖達の理想や真希の否定に躍起になる宿儺は甚爾と同じ轍を踏んでいるのか、あるいは暇つぶしの達人の単なる気まぐれに過ぎないから問題ないのか? 同じ轍を踏んでいるのだとすれば甚爾の一連の描写の完成度からはあまりにも劣化していて雲泥の差があるのも悲しい。
なんだかんだ五条悟と戦い勝った時が一番満たされてそうだったから現状は退屈を持て余し過ぎているのか、だとすれば所詮五条と同類ということになってつまらんだろう。
一番がっかりしたのは例の漏湖への名言、「群れとしての人間 群れとしての呪い 寄り合いで自らの価値を計るから皆弱く矮小になっていく オマエは焼き尽くすべきだったのだ打算も計画もなく手当り次第 五条悟に行き着くまで未来も種もかなぐり捨ててな 理想を掴み取る”飢え” オマエにはそれが足りていなかった」別にあれは自身の実感と経験に裏打ちされた言葉ではなくただの一般論を述べただけの可能性があるという事実だった。あんなに感動したのに……。この名言があったからこそ「身の丈で生きているに過ぎない」という台詞にも「こんだけ最強という理想を掴むために飢えてきた人が俺は身の丈で生きているに過ぎないというならなんかもう自分ごときは身の丈で満足して生きてもいいのかもしれない」とまで思わされたというのに。呪物化したのだって不死の天元よりも長生きしてみたかったとかでいいから何らかの理由があって欲しかった。
ただそれらが所謂渋谷の呪いの王という完成されたかっこよさではない理不尽な人間味、あるいは行動全てが何ら理由のない獣性、真の孤独、そういったものを描いて宿儺のキャラクターに奥行きを持たせたいというならそれはそれで一見の価値があるだろう。最近の宿儺のモノローグが今後覆されることがあるならまた話も変わるし、どう描きたいのかが全く見えないから、この漫画に対する結論を出せないでいる。

これは現状から逆算して過去に物語を見出そうとしているに過ぎない下らない話だが、2023年2月28日までの目標を少しも遂行出来なかった時から、ワナビー気取りとしての自己は死んでいたのだと思う。思う?思っている暇があったら実際に死ぬべきだ。死ななければいけない。呪いとしての君は死んだ、生きろ、今度は人として。今度……この後があると思っているのか? あの時は確か、マンダラチャートを作っていた。意味のないマンダラチャートを……。死にたくないのならば、書き続けるフリを、死ぬ気でやり続けなければならない。

この話も何度も書いた気がする。何が済んだ話で、何が新しい話なのか、最早微塵も思い出せない。緑茶のテアニンがリラックスだよ?

呪術廻戦を読むと創作意欲がゼロになる。それは才能偏重の世界観、2020年代の漫画に求められるクオリティのレベル、現代的な世界の解像度、吐いて捨てる程いる若い才能、それに自分がいかに取り残されていて席がないかを完全に分からされるからだが、その中で唯一、伏黒というキャラクターだけは失われたワナビ―気取りの自我を思い出させる。それは主に初めて領域展開したシーンの描写のせいである。『本気でやれ、もっと欲張れ』『呪術師の成長曲線は必ずしも緩やかではない。確かな土壌、一握りのセンスと想像力、あとは些細なキッカケで人は変わる』『限界を超えた未来の自分を』『不完全、不細工もいいところだ、だが今はコレでいい、もっと自由に広げろ、術式の解釈を』というあまりにもポジティブな励ましに溢れた回答である。15歳への自己投影を公言すべきではないが、自分にとってこの漫画で唯一感情移入できるキャラクターだと言ってもいい。
その伏黒が今やこの様である。

もういいんだ。

そうだ、もういいんだった……。


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