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200704 ぎりぎりの日にもできること。


常にうまく合致していればいいんだけど、身体と心は食い違う時がある。

例えば何も手につかないときがある。やりたいことややらなくてはいけないことがあるのに体がついてこないこと。
逆に、体が先走って、寝ておかないといけないのに動き続けて次の日にしんどくなることもある。

他人とのコミュニケーションの中でよろこびや発散を見出だすタイプの人とはたぶんわかりあえなくて、他人がいるときは常に大なり小なりの緊張がつきまとう身としては喉から手が出るほどうらやましい。逆立ちしたって私の手には入らない思考だと思う。

みんなどうやって調整してるのかわからないけど、私は、能動的なときと受動的なときで、調整方法を変えている。どれも、身体か心(脳みそ)を休めるためにしていることだ。

■非常に能動的
・散歩をする
・絵を描く
・美術館に行く
…発散をするぞという強い気持ちで支えられている。
体力を使うので、かなり元気なときや、止まれないときのための行動。

■能動的
・活字の本を読む
・映画を観る(映画館)
・料理
・掃除
…外に出られるなら出たい。動きがまだある。

■受動的
・動画を観る
・日記を書く
…家の中でできること。家の中でできて気分が変わること。
元気はないけど、寝ているだけではない状態。

■非常に受動的
・音楽を聴く
・窓の外を見る
…ベッドの上で一日を終える日の。
家に大きい窓があるので、全開にして床に寝転ぶ。たまに鳥や虫が入ってくるけど、たいてい慌てて出ていく。
向こうも入ろうと思って入ってくるわけではないので、可能な限り殺さないようにしている。共存できないと思うやつが居座ろうとすれば殺す。私の部屋なので。

■動けない
…とくに何も見ていないし何もしていない。転がっているだけ。燃費が悪いのでおなかはすくが、何も出来ないので横たわっているだけ。
あるいは体調が悪く苦しんでいるとき。
うずくまってじっとしているときは息を止めているが、とめている なのか とまっている なのかは判別できない。


何かの記事で、今日はダメだと思ったときの過ごし方、をいろんな人が書き出しているものを読んだことがある。「お気に入りのワンピースを着ておでかけをする」と「やかんで湯を沸かす」が並んでいた。ワンピースを着ておでかけは、私からすれば非常に能動的なときにしか出来ない。私服で仕事ができる環境なら変わるのかもしれない。
「やかんに水をくんで、つまみをひねって火を着けて湯をわかす、それだけならできる。湯が沸けばなにか温かいものを飲んでもいい。」といったようなことが書かれていて、青い夕暮れの台所にそこだけぽつんと赤く照らされているやかんの底を想像して、本当にダメな日のことなんだなと思った覚えがある。

やかんではないものの、湯をわかすのはぎりぎり、全く動けない日にも出来ることだと思った。
確信したのはインフルエンザで40度近かったときで、朦朧としながらも電気ポットで湯を沸かして蓋をあけて加湿していた(痕跡があった)からだ。
残念ながらそのふたつが印象に残りすぎてなんという記事だったか思い出せない。
もう一度読めば印象は変わるかもしれないのでまた廻り会いたい。



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