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藤子・F・不二夫「サマー・ドッグ」を読んで ―高畑は決してイケメンではない―(なかたつ)

藤子・F・不二雄「サマー・ドッグ」
(この記事は、8月8日に百均とツイキャスにて「サマー・ドッグ」を読み合った振り返り記事です。録画を残してあり、長くなっておりますが、重要な点はpart3の9分頃から16分頃までで展開されています。それまではお互いの読み/認識のズレがなかなか解消できず、イライラしている様子がわかりますので、あまりおすすめしませんが、そのイライラも読み合いならではなのでお楽しみください)
サマー・ドッグpart1
サマー・ドッグpart2
サマー・ドッグpart3
サマー・ドッグpart4
サマー・ドッグpart5

(以下、〇/〇と表記されている部分は、原作URL内のページ数を示しています)


登場人物及び矢印の向き

マミ
エスパーが使える。この作品においては、自らと他人を宙に浮かせるテレキネシス、物質を移動させる部分テレポートといった能力を発揮している。目の前の出来事に対して、その場その場で反応を示す性格があると思われる。

高畑
まとめwikiやTwitterでの検索においても、イケメンとされている。勇猛果敢に野犬へ立ち向かい、マミを守ろうとする。もう一度言おう、マミを守るため、マミを守ろうとする

マミの父
絵を描いているおじさん。

伸一
チビというサマー・ドッグを探している少年。真のイケメン。

伸一の母
言い訳おばさん。

チビ
人を襲う野犬。伸一家の元飼い犬。

主要な人物は以上になるが、作品内でこれら登場人物の関心がどこに向いているのか、ということをセリフから見ていく。

高畑→マミ
最終コマからもわかるが、犬のことよりマミの体を気遣っており、高畑の関心はマミに向いている。それは、5/15にも描かれており、2人でスケッチに出かけるが、高畑はすぐスケッチに飽きてしまう。何をするかではなく、マミと一緒にいられればよく、「来てよかったと思うよ」と述べている。
マミを守るためだったら、犬を殴ることもいとわない(12/15)。

伸一の母→伸一
2/15において、伸一を探し、日射病になることを気にしている。9/15においても、犬の心配より、伸一が犬に噛まれてしまうのではないかということを心配している。

伸一→チビ
この作品は、伸一がチビを呼んでいるセリフから始まっている。8/15において、伸一は母に対して置手紙をしてまでチビを探している。その中には、敢えてなのか、見切れた文字で「かわいそう」という言葉が見られる。

マミ→?
マミは目の前の出来事に対し、すぐに行動を起こす。ケガする人がいれば、自らの血を送る(11/15)。しかし、高畑に対してはどこか冷たい。高畑が木に顔をぶつけても、「気をつけてよ」という一言だけ(5/15)。
ちなみに、マミは高畑のことを「高畑さん」という呼び方をしているが、この作中、高畑はマミのことを呼びかけるのが最後の一コマにある「きみ」としかない。

主人公は誰?

この作品の主人公は誰だろうか。題名にあるマミか、イケメンとされる高畑か。読み手が様々に焦点を変え、感情移入する対象を変えて読むことができる。
それでも、この作品の主人公は間違いなく伸一である
無論どの登場人物が欠けても、この作品の物語というのは成り立たなくなってしまうだろうが、伸一がいなければ、この物語自体が展開されていかない。

伸一の不可欠性
1.この物語自体、伸一がチビを探しているシーンから始まっている
2.伸一はチビを探すという行動・想いが一貫している
3.その結果、夜になって山へ探しにいく
4.その伸一の行動を元に、伸一の母・マミの父・マミ・高畑が行動する
この4におけるそれぞれの行動を分解する(9/15)。

伸一の母は、マミのいる貸別荘に乗り込んできて、文句を言う。
マミの父は、駐在所へ行き、捜索隊を依頼しようとする。
マミ・高畑は、伸一を探しにいく。
伸一は、チビを探し続けている。

全てが伸一の行動をもとに物語が展開されている。
しかし、伸一が真に不可欠である理由は別にある。

情操教育とは何か?

この作品のセリフの中で、強烈な印象を覚えながらも、さらっと流してしまうだろう「情操教育」という言葉(9/15)。
そもそも情操教育とは。

先ず、これが伸一の母のセリフであるということを忘れてはいけない。伸一の母は「情操教育」という名目のもと、チビを飼った。しかし、そもそも伸一家は、夏のあいだだけこの土地を訪れていることを伸一が説明している(2/15)。そして、チビが家に帰らなかったことが伸一の母によって説明されている(9/15)。
つまり、チビは伸一の母の情操教育のためという名目の意志によって飼われ、「いたしかたございませんでしょ。マンションぐらしですもの」という伸一の母の名目≒言い訳によってチビがこの土地に残されてしまったこともわかる。
伸一の母の意志、「情操教育」のためという名目がこの物語を動かしており、それが社会現象ともなった「サマー・ドッグ」とも重なってくる

それでは、結果的に伸一の母が述べた「情操教育」は果たされたのだろうか。
犬を飼うという行為自体が「情操教育」になると安易に考えている伸一の母、自らの都合によって犬を飼い、自らの都合によって犬を残したのであり、「情操教育」が必要なのは、伸一の母ではないかという皮肉を感じた。
そして、この「情操教育」は、チビを山に残すという言わば失敗をすることによって伸一にとっては成功になったのではないだろうか。伸一の行動は常に一貫している。その結果がチビと過去を回想し合う、一方的な愛ではなく、チビと寄り添い合う、チビからも体を委ねられているというシーンは、伸一が報われたことを示している(14/15)。

伸一の母が狙いとした「情操教育」は間違いなく、伸一に向けられたものだ。しかし、この作品のすごいところは、作品内において「情操教育」が果たされたのは、伸一だけではないことにある。
マミを守ろうとした高畑の真っ直ぐな愛? そんなはずはない。


マミの変化

この作品内において、マミと高畑は言わば伸一家の出来事に巻き込まれただけである。見知らぬふりをすることもできたのかもしれない。それでも、マミは何かの気配を感じることができるが(5/15、9/15)、高畑は単にマミを追いかけているだけだ。

「情操教育」されたのは、マミである。それをセリフや描写から追っていく。
伸一とチビが再開するシーン(13/15)において、高畑は相変わらず犬を殴ろうとしているが、マミは伸一を心配したうえでこう述べている。
「来ちゃだめっ!!」
「チビはもう、昔のチビじゃないのよ!
 伸ちゃんのことなんかおぼえていない。
 人間はみんな敵にしか見えないのよっ。」
あくまで伸一を心配したうえで述べているのだろうが、伸一が来ちゃいけない理由≒名目として「人間はみんな敵にしか見えないのよっ」と、犬の気持ちを代弁してしまっている。これは、10/15にも「捨てられた悲しみ」「飢えに泣いた苦しみ」「追いたてられたおそれといかり」と、まるで犬の気持ちがわかるかのように代弁してしまっている。つまり、この伸一に呼びかけている場面では、伸一に対して犬の気持ちを代弁することで、マミが伸一を「教育」しようとしている。
しかし、伸一は変わらず、チビに向かい、二人は抱き合う。二人が抱き合ったすぐ次のコマは、マミの目に涙が浮かんでいるシーンとなっている。敢えて言おう、マミだけが目に涙を浮かべている。もう一度、マミだけが
そして、マミは医者に体調を診てもらい、「あのイヌたち……、ぶじに……、しあわせに……。」(14/15)と述べる。さきほどは、「敵にしか見えない」とまで勝手に代弁していたのだが、ここで犬に対する見方が変わっていることがわかる。この変化が、まさに「情操教育」的であり、また、それが伸一の母が意図していなかったところで、伸一がマミを「情操教育」してしまったのだ。

で、高畑は?

高畑のサイコパス性―代弁

高畑もまた伸一と同じように、矢印の向きが一貫している。高畑はマミのことだけを見ているから、犬を殴れる(12/15)。
いや、本当にそうか。高畑は本当にマミのことを守ろうとしているのだろうか。それすらも……。

高畑の奇異性は主に2つの場面にあらわれている。
1.「チビはね、群れの中を見捨てることができないんだよ」
(14/15)
犬を殴っていた人物が、犬の気持ちを代弁してしまっている。伸一の想いはチビに向かい続けており、再会を果たした後で、チビを家に持ち帰るなど、別の場所に移すなどと違う行動をとることが出来たのかもしれない。しかし、この場を何とかやり過ごそう、いや、この場をやり過ごしてしまったのはこの高畑のセリフ、犬の気持ちを利用して代弁することで伸一を説得≒教育しようとしている
伸一はこのセリフに納得するはずがなく、背景に「チビーッ!!」と3回続けられるコマが何とも悲惨に見えてしまう。
先述したが、伸一とチビの再開を見て、涙を浮かべているのはマミだけであって、高畑はその真偽が明らかになっていないが、このようなセリフを述べる人物が果たして……。

2.「野犬全滅作戦」について書かれた新聞を燃やす
(15/15)
なぜ、高畑は新聞を燃やしたのか。マミの気持ちを慮って、マミに知らせたくないからというのがイケメン説の主張だろう。これがマミを守ろうとした高畑の一貫した行動である、のか?
先述したように、チビをこの土地に残して、この場をやり過ごしたのは犬の気持ちを代弁した高畑のセリフであり、意志である。もし、チビやその仲間を別の場所に移すなどといった行動をとっていれば、野犬がほぼ全滅することもなかっただろう。
つまり、あの場において、高畑のセリフ・意志があったから野犬がほぼ全滅することになったのであり、単にその事実をマミに知らせたくないということと同時に、高畑がそれに関与しているということをマミに知られた時、マミにどう思われるのか、責められたとしてもおかしくない。
新聞を読んでいる高畑の顔は青ざめて、汗のようなものが流れているように見える。これは、この出来事に対するおそれとしての反応もあるだろうが、自らのせいであるということに気付いてしまった冷や汗であるとも見ることもできるだろうか。
そのうえで、最後の高畑のセリフ。「まず、きみがすっかりなおってからだよ。」と。真にマミの気持ちに寄り添うならば、マミの関心が「イヌたち」に向いている以上、その同じ関心に目を向けることが適しているだろうが、高畑は話を逸らしている。
マミを守るという名目のもと、自らに向けられる想いを曲げられないようにと、高畑は高畑を守っているのではないだろうか

余談―固有名詞(チビ)を求めること

最後に余談。
ツイキャスにて、時間がなくて最後に少し出てきた話題。伸一にとって、犬がいなくなって寂しかったのなら、また貸し別荘で別の犬を飼うという選択肢もとれたはずだ。それこそが「サマー・ドッグ」という社会現象を生み出した一つの要因ともなっているだろうが、伸一及び伸一家は別の犬を飼うという選択肢をとることはなかった。おもちゃが壊れれば、新しいものを買えばいいという思考ではなかった。
伸一の母は、「チビ? まだそんなこといってるの、あきらめのわるい子ね」と伸一を「教育」しようとしているが(2/15)、伸一はただひたすらに「チビ」を求めていた。それは犬だったら何でもいいというわけではない。
伸一家が別の犬を飼ってしまっていたら、これもまたこの物語が成り立たなかった。この当たり前すぎる、唯一無二であるもの≒固有名詞を求めるということ。このことに最後に気付けたので、「サマー・ドッグ」によって百均となかたつにおける「情操教育」は成功したということにする。

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