自分の求める道筋

このところ、家で料理や洗濯、犬の世話など家事をするときには、オーディオブルを聞いている。これは、とてもとても、いい。
今聞いているのは、村上春樹著の『海辺のカフカ』。上下巻にわたる長い作品だけれど、そろそろ大団円に近づいている。そのなかで、非常に示唆的な台詞があったので、書き留めておきたい。第33章において(ページ数を提示できないのが、オーディブルの弱点の一つ)、主人公の少年カフカに向かって、図書館員の大島さんが、こんな話をする。ジャン・ジャック・ルソーによる文明の定義を紹介したあとに、
「すべての文明は、柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。もっともオーストラリア大陸のアボリジニだけは別だ。彼らは、柵を持たない文明を17世紀の終わりまで保持していた。
彼らは根っからの自由人で好きな時に好きなところに行って、好きな事をすることができた。彼らにとって生きることは文字通り歩き回ることだった。歩き回ることは彼らの人生の深いメタファーだった。(略)イギリス人がやってきて、家畜を入れるための柵を作ったとき、彼らはそれが何を意味するのかをさっぱり理解できなかった。そして理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた」
という。そして、こう続ける。
「この世界では、高くて丈夫な柵を作る人間が有効に生き延びるんだ。それを否定すれば、荒野に追われることになる」

荒野で生きていくというのがどんなことか、本当には分かっていないのかもしれない。けれど、私は半世紀と少しの時間を生きてきて、いい加減に柵の外に出たい、と思い始めている。柵の中に居続けるうちに、いつのまにか自分が失われてしまう(村上春樹ふうに言えば)。別の言い方をすれば、自分が何をしたくてここにいるのか、分からなくなってしまう。だから完全に正気を失ってしまう前に、精神的に失神してしまう前に、ほんのちょっぴりでも、外に足を踏み出したい。
ところで、”失神”って、なかなかすごい言葉だったんだ、と気づく。

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