雑な日記

しばらくものを書いていなかったので、ウォーミングアップとして思ったことを雑多に記してみる。

今日は、3日ぶりに丸いちにち自由に時間を使える日だったから、のんびりと犬の散歩を済ませてから家を出た。透き通った青空がまぶしい。樹々の赤や黄色の葉っぱは半分くらい落ち、箒を逆さにしたような樹形がその姿をあらわにしていた。車が来なかったので、家の前の道を、交差点の10メートルほど前のところで横断する。
大きな通りを足早に渡り終えて歩道を歩いていると、向かいから小さなカートを押しながら、背の低い老婆が歩いてきた。腰が曲がっている上に、肩をすぼめるように丸めているので、小さな背丈がさらに小さく見える。薄い水色のマスクで顔の1/3を覆っているのを見て、私は自分もまたマスクをしていたことを思い出し、無造作に外す。
老婆は、大事なカートをぎゅっと握りしめて、ゆっくりゆっくり歩いている。これまで私は、感染症対策に、ほとんど意味がないマスクを家の中でも外でも律儀に装着しつづける人たちを、内心、ほんのちょっぴり侮蔑してきた。けれど、今日はちがった。なぜか、その老婆がとてもとても無力な人として目に映ったのだ。

年老いた彼女は、あちこち痛みや不調が慢性化した体を引きずるようにして、買い物に出る。近所のスーパーで、多くはない年金を気にしながら、手ごろなお惣菜なんかを買ってその茶色のカートに大切にしまい家に帰る。何人もの人の死を見送った彼女の人生には、もうほとんど活力あるものは残されていない。荒々しくて騒々しい、暴力的な外の世界に働きかけられるような力は、もう自分にはないと知っている。できるのは、ささやかな自分の日々の暮らしを守ることだけ。だから、怖い病気が襲ってくるときけば、アルマジロみたいに身を丸くして自分の殻に閉じこもるしかないのだ。

小さく、身を丸めてマスクをする無力な人々にとって、新型コロナ感染症の対策が、科学的に意味があるかとか、理屈が通っているかとか、そんなことはどうだっていい。国が、厚労省が言うことに、どんな嘘があるだろうか。そんなのを疑って、反発するためには、絶対的な自分の力が必要なのだ。けれど、抵抗する力が自分にもあると信じる心は、とおの昔に、おそらく何十年も昔に捨て去ったのだ。

新型コロナのワクチンは2回の摂取で、最初98%の感染予防の効果があると喧伝されたが、今は半年かそれ以下のブースター接種が必要になり、ワクチンの必要性の訴えが恒常化した。しかし、ブースターワクチンは接種するほど免疫力が低下し、コロナにも他の病気にも感染しやすくなる。それどころか、ワクチン自体の有害性も1000を超える論文で立証されている。にもかかわらず、国のワクチン接種の推進の姿勢は変わらない。オミクロン株は、明確に天然の変異で創られたものではなく、人工的な配列のウィルスであるといくつもの論文がでている。最初の武漢株が研究所由来だということを、アメリカで感染症対策の中心人物であったファウチ博士も認めている。でもメジャーなメディアは何も言わない。

というようなことも、彼女には届かない。自らの身を守るため、くるりと身を丸めているから、外の光も風も入り込む隙はない。何かに対して手を広げる力は、もう自分に残ってはいないと思うから。

世の中がこんな風になったのは、別にコロナが起きて何もかもが一変したからってわけじゃない。それよりもずっと以前から、私たちは個々人が、ものすごく無力で、何も持っていないと、深層意識の深いところで思わされてきたのだろう。恐怖に煽られ、従順に強者の言うことに従う、自分の判断を棚上げする盲目さを、もっとずっとずっと昔から植え付けられてきたのに違いない。
日本中でマスク病がなくならないのは、世界一の高齢国家であることと無関係ではないと思う。自分が無力だと思う人間は、年老いたらなお無力になるしかない。恐怖と無力さへの自覚は、容易に伝染し、全世代に広がる。
まぁこれから何をしたいかと言われれば、その無力さの幻影から人々を引きずり出し、頬をぺちぺちひっぱたいて目覚めなさい!っていうことかもしれない。でも、そんな風に地上世界に縛られたくないとも思う。そんな葛藤をしている今日。

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