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平凡 ということについて。

こんにちは絵描きの工田春です。
基本何も調べたり勉強したりしない個人的なお話になりますのでどうぞお気楽に読んでください。
Twitterか何かで何が平凡なのか?と思うような方が「平凡」な私が…と呟いているのを見て、今日はずっと考えてしまったことです。

わたしは「平凡」だからとか、どうせ「普通」だからとか、そういった穏やかな言葉が少々悲観的に使われるのがいまだによくわかりません。
現代社会の中で使われる平凡とか普通という言葉が含むニュアンスってなんだろうってふと思いました。一体何と比べてなのかと思いますが、世間一般常識というか平均値的な話なのでしょうか。

人ひとり全く同じ人生を歩めるというのはまずありえないことで、たとえば今日15時23分30秒学校の玄関で蹴つまずいたa小学校2年生のたくみだはるちゃんはきっとこの世に2人はいません。
19時58分に家族4人でいただきますをして今日初めて作ったキャロットラペ、かぼちゃのスープ、鶏肉ときゅうりの和物、玄米ご飯が並んだたくみだはるちゃんのおうちのたくみだはるちゃんもこの世に2人といません。
そのように色んな条件が異なる環境で送る細やかな経験の積み重ねで出来上がっている一人ひとりを漠然とした「人間性」や「人生」で切り取り、世間と比べて「平凡」なんていうのはなんだか不思議だなと感じます。
そしてそれを自虐のようにするのはもっと不思議だと感じます。

少し思考を飛ばします

近年、情報が溢れた世の中、遠い遠い世界の間反対の人の情報もあっという間にわかってしまう。そうすると似たような思想や表現がたくさんあることに気づいてそこに優劣がつく。
絵などで言えば、もちろん、大半の人が美しい!と感じる黄金比のような数学的な美って存在するのは確かなのですが、

初めてペンを握った小さな子供が描いた丸のようなもの、ケンケンにもならないようなスキップ、一人暮らしで慣れない料理、味噌を溶きすぎたお味噌汁、そういう細やかなストーリーに
ハッとしたり、ドキッとしたりしちゃうんだよね、と思います。
それが一体どんな心境だったのか…何を考えながら、働きながら、遊びながら体験したことだったのか。
なんだかんだ1人の人間ができることって少しなんです。何かしら沢山力を借りて支え合ってるんです。
みんな自分の中のちょっとを懸命に生きているんだよなぁと思っています。
その大切なちょっとを実感する瞬間が、平凡であり特別ってやつなんではないかなと思うんです。
私は自分の中に平凡だ…と穏やかに安らかに感じられる時間や質があるのってとても良いなと思います。

白い紙に鉛筆で丸を描いてください。

そう言われてトレースでもしない限り、全く同じものをかける人はいません。
自分だって3分前の自分の丸をかけるかっていったら描けないんです。
刻々と変化し、経験を積んで、「私」というただ1人の人間になっていく。面白いもんですね。オンリーワン。
微妙なニュアンスをクリアに持ち続けられたなら
大切なちょっとという平凡が、特別に大きな平凡って感覚に変わるんじゃないかなぁと、日々コツコツです。
さて、明確な答えは出そうにありません。
ここまでにして寝るとしましょう…

colifer夜の小言

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