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あえて孤独に読んでいる

このところ、忙しい日が続いている。小旅行に出かけたり、娘たちの発表会や懇談会があったり、急ぎの仕事が舞いこんできたり。

忙しくなるとやはり、本を読む時間が取れなくなる。片づけなければならないものを優先することで、読書のために時間を確保するのが難しくなっていく。今月はまだ2冊しか読んでいない。

娘たちが家の中で仲良く遊んでいるときに本を開くこともある。彼女たちは双子だから、機嫌がいいと二人で協力しあっている。

しかし、子ども部屋から嬌声が響いてくると、本の内容に集中できない。「わー! ママー、すごいのできたよ、見てー!!」としょっちゅう声をかけられて、どうして本に没頭できるだろう。

私にとって読書とは、著者と心を通わせる、もしくは真っ向から切り結ぶ営みだ。共感や感動、気づきに満ちた本を読んでいるときは著者の思いをしっかりと受け取っている気分になる。反対に、同意できない意見が詰まった本を手にすれば、頭の中で丁々発止ちょうちょうはっし、激闘を繰り広げている気分。

子どもの頃から内向的だった。本を読んでいるときだけ、心の中で自由に大きく叫べた。「あー、わかる!」「感動する!」「へー!」「うそだー!」いろいろなことを著者とお話ししているつもりになっていた。

読書について考えるといつも、小学校時代のある出来事を思い出す。

お昼休みに教室で本を読んでいた私のところに、クラスメイトがつかつかと歩み寄った。先天性疾患があって目が悪いため、よく斜視と間違えられていた当時の私。

彼女は言った。

「うちのお母さんがさ、あんたのこと『どこ見てるんかわからんから気持ち悪い』って言ってたで」

ふーん。私は一度あげた視線をまた本に戻し、続きを読み進めた。長くつ下のピッピが冒険に出かけたばかりだった。ここは読んでおかなくちゃ。

私からこれといった反応がなかったので、クラスメイトはつまらなそうに離れていった。

ただそれだけの出来事なのだけれど、なぜかはっきりと覚えている。私に本があってよかった。本が逃げ場をつくってくれた。傷つかなかったと言えば嘘になる。でも、私には本があるからいいや。根暗でウェットな性格はこの頃に形成されたものなのだろうなあ、と思っている。

私は喫茶店とか、自分の部屋とか、静かな場所で本を読むのが好きだ。子どもの頃、本には孤独がつきものだったからかもしれない。

大人になったら、孤独ってけっこういいものだと気づいた。一人にならなければ見えてこないものがある。あと、いい出会いはだいたい一人でいるときに訪れる。逃げ場として機能していた本の世界が、私のれっきとした居場所の一つになった。だから、あえて孤独に読んでいる。

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