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リーダーって何だ #2 「自分」

 僕に才能があるとすれば、それは「常に考えを変えられる」ことだと思う。都合のいい話をするためにあえて最初に言っておく。世間一般で言われている常識とか慣習にそれなりに影響は受けるものの、疑問に思うことがあれば否定したり拒否したり無視したりもする。逆らうこともある。とはいえ問題を起こしたいわけでも騒動が好きなわけでもない。ゆえに合わないと思った仕事はすぐに辞めていた。今では通常の履歴書の書式では職歴を書き切れないほどになった。でも別にそれでいいと思っている。
 僕の実家は両親とも公務員でさらに祖父母も公務員、ガチガチの常識人たちなので僕の存在はもう異端でしかない。いまでも「ちょっとした事ですぐ辞めるやつ」くらいにたぶん思われている。しかし職場環境というのは重要なのでこれは妥協したくないのだ。ある職業斡旋の仕事をしている人から聞いたのだが、やはり仕事を辞める理由の9割は人間関係が原因だという。仕事を辞める理由は何をおいても環境が一番なのだ。逆に言えば職場環境が良ければそうそう辞めることはない。
 じっさい僕も辞めるところはさっさと辞めるが、続く場所では4年、10年と続いていた。何でもかんでも辞めていたわけではない。図書館の仕事だってときにはクレーマーとガンガンにやり合ったりもしていたのだ。あんなの好んでやるわけないしムカつくことも多かったけど、同僚たちが楽しければやっていける。そういう場所では会話もあるしお互い仕事のフォローができていた。自然と自分もそうしたいと思ったし、そうしてきた。それでいいのだ。
 つまらない職場はさっさと辞めてしまえばいい。無駄にストレスを抱える必要はない。自分に合う職場はいずれ必ず見つかるのだ。とはいえ生きている以上時代は変わっていくし制度も変わっていくし老後に二千万円が必要にもなっていく。優秀な人が結婚退職したり転勤で移動したり実家に帰って行ったりもする。それで職場の雰囲気も変わっていく。状況は常に変化する。のでひとところに留まり続けるのも危険である。変わることをベースにしてしまえばそんな変化に慌てふためくこともない。だからアンテナは常に張っておく。それは自己防衛だ。変化に情報は不可欠だ。
「これでいいのか」と迷ったら
「それでいいのだ」と答えてあげたらいい。

 これは何の話だろう。
 書き出しを考えていたら変な主張が始まってしまった。だが本稿の趣旨に関連づけることはできる。変化に対応する意識を持つことはリーダーとしてのマインドセットとなる。これは固定観念からの脱却なのだ。拳を突き上げて主張したい。「固定観念からの脱却!」「おおー!」
 人はみな固定観念を持っている。
 「自分」というやつだ。
 あれ、急に話がつながった。OKOK。
 これは僕のリーダー論では非常に厄介なやつだ。
 だれでも自分からは逃げられない。
 誰の中心にも「自分」がいる。
 心理学者アドラーによれば「人は生まれてからの4、5年で自我が育ち、人生に対する態度が固定する」という。仕事をしてる年齢の人は全員そうだということになる。価値観はなかなか変えられないが、柔軟になることはできる。

 どういうことがきっかけだったか、いつしか僕は思っていた。
「基本的に人は他人のためには動かない」
 そりゃそうだろ、と思うかもしれない。
 僕も軽く考えていたが、そうしなければならない立場になった時に初めて思い知った。まあ動かない。家族でも友人でもない人間の言うことにホイホイ従う訳がない。それは動かざる価値観としてその人の中に存在する。「なんでお前のいうことを聞かなければならんのだ」と。
 しかし現代には強力な力がある。
 僕はそれを「仕事だからフィルター」と呼んでいる。「仕事だから」とひとこと言えば人が働く謎の強制力。僕はこの力が嫌いである。だが社会には浸透している。僕はこれを疑う。なぜこんなことになっているのかと。
 これには歴史がある。
 他人に動いてもらわなければ困る人がいる。自分がやりたいことを実現させるためには多くの他者の力を集めないとできないことがある。事業家とか社長とかそういう人たちだ。別に悪いことじゃない。ただ、そうやって仕事が生まれるということ。元々は一人で始めた人もいるだろう。親から事業を継いだという人もいる。経緯はそれぞれにしても誰かの手を借りなければならない。そうやって人を雇い、大きくなる会社もある。大きくなって何年か経つと一度にたくさんの人数を雇用することもある。そうすると一人一人なんて見てられない。新卒採用で一斉に社員研修を実施する。そこで「仕事である以上は上司に従うべし」とあの手この手で叩き込む。そのうちに小さな会社でも社員研修をやり出す。「仕事だからやれ」が当たり前になっていく。
 本来動かない人の価値観はこうして教育され上塗りされていく。
 しかしそれぞれの「自分」がなくなったわけじゃあない。
 「自分」は確かにいるのに、それは違うと言われながら毎日を過ごしている状態だ。そりゃうつ病も増えるし自殺者も増える。
 社員研修で教えられることなんて後付けの価値観だ。無理をさせるために教え込んでいるだけだ。僕には洗脳にしか見えない。「仕事だから」は理由としておかしい。仕事は理由ではない。ただの名詞だ。名詞を理由にするのは信仰ではないか。

 見る角度を変えて考えると、そこまでしないと個人の価値観は揺るがない。仕事を無理矢理にでも信仰の対象にしなければ思い通りにできない。「自分」というものはそれだけ強い。これを動かすのに、僕は洗脳的な手段はやりたくないしやり方もわからない。知識としてはあってもいいが手段としては用いたくもない。ではどうするか。そこからが問題だ。
 基本的な人間関係に立ち返って考える。
 誰かに何かをやってもらう。
 そういう時は頭を下げてお願いするのが普通だ。
 でもそれで動いてくれるだろうか?
 不十分だ。相手によって差が出てくる。単に下手に出るだけでは舐められてしまい、かえって進まなくなることもある。
 お願いを気持ちよく受け止めてもらえたら?
 喜んで協力してくれるようなお願いの仕方があれば?
 そうなったらいいけれども、もちろんそんな魔法の言葉はない。
 かろうじて学べるのは丁寧な言い回しくらいなものだ。

 ありがたいことに僕には考える時間があった。
 8年という歳月をかけていろんな成功例と失敗例を目にしてきた。
 結論なんて出ていない。これで正解、みたいなものは決めたところでいずれ変化に巻き込まれて役に立たなくなっていく。場所が変われば人も変わる。このように振る舞えばすべてうまくいく、というわかりやすい答えは見つからなかった。
 もう環境から変えるしかない。
 こちらのお願いを自分からやってあげたくなるような環境を作る。これは自分の肚ひとつである程度できる。しかし大半の人はすでに社会の常識に毒されている。
「もっと楽にやりましょう」
 と言っただけで眉を顰められたりする。効率のことを言ったつもりが怠慢だと受け止められてしまう。常識が「自分」を侵食している。だから僕はカウンターを放つ。
「無駄なこと省いてすぐに終わるようにしたら、空いた時間を他のことに使えるじゃないですか。その方が効率的でしょ」
 こういうと顔色を変える人は多い。最初の僕の発言に対して「こいつ大丈夫か?」みたいな顔をしていた人も
「そうかもしれない」
 と言い出したりする。ちょっとだけ前進。
 こういう細かい楔が必要だ。
 常識を崩すと自分が出てくる。その自分に対してお願いする。
 自分の意思でやりたいと感じてもらう。やりたくないにしても積極的に取り組んでもらう。それは借り物の信仰心ではできないことだ。
 だから僕はひとりひとりを見る。よく見る。観察する。人間観察は責任者の嗜みだ、くらいに思っている。しかしほんとうにじいいいいいっと見続けてはいけないその状態は目つきが悪いし何か良くない勘違いをされてしまう。「変な目で見られてる、怖い」と思われて警戒される。見るのはあくまでさりげなく。
 誰かが髪を切った。顔色が優れない。妙に機嫌が良さそうだ。
 そんな細かい変化にその人が現れる。
 でも目つきには本当に注意した方がいい。

 多くの人が「仕事だからフィルター」に覆われてしまっている。
 それは本来の「自分」ではない。大なり小なり無理している。これでは本来のパフォーマンスを引き出せない。人間の力はもっとすごい。押し付けられた事をこなしているうちはその力は出てこない。どうすればその力を引き出せるのか。

 生の「自分」で働ける環境を整える。
 言葉にすればこういうことか。
 いま、ようやく言葉にできた気がする。
 生の「自分」、フィルターを超えた自我。これは強力だ。これをベースに働いてもらうのが最もパフォーマンスを引き出せる。
 問題はコントロールが難しいということだ。放っておいてはみんな無軌道に好き勝手動いてしまう。仕事には目標がある。これを達成するために僕は何かをしなければならない。目標は理由になる。
 でも「仕事だから」は使いたくない。それは僕にとって手抜きの言葉だ。ちゃんと理由を説明する。納得して動いてもらう。これを怠らずに繰り返す。

 ごちゃごちゃと色々書いたが、個人主義が浸透している国なら問題にもならない話だったりする。あちらはあちらで成果主義という厳しい現実があるが、個性を否定するフィルターはない。いや、あるのかも知れない。あっちで働いたことがないから正確にはわからない。だが能力は厳密に判定される。結果が全てだ。その良し悪しはともかくとして、僕はフィルターを取っ払ってみたかった。
 だってその方が自然でしょ。
 「仕事だからフィルター」に対する反動はすでに出ていて、それを抑えるためにワークライフバランスなどが言われているが、これもちょっとズレている。ワークライフバランスは仕事と私生活の両立あるいは調和を謳った言葉だが、そもそも調和すべきは自分自身だ。「仕事だから」社会に嫌気がさして反発する人が増えてきた結果、フィルターの力が弱ってきている。そこにテコ入れするためにワークライフバランスという言葉が利用されている。実際にワークライフバランスのためにされていることといえば勤務時間とか有給取得とか数値化できることしか出てこない。企業はそこで収めたい。

「仕事だからフィルター」を疑え。その先に当たり前の人間関係がある。
 それが僕の言いたいことだ。
 「自分」の章の第一歩。
 当たり前のことが当たり前にならない、この現状をぶち壊す。
 これをやって初めてひとりひとりの本来の力が引き出される。

 なんだか大袈裟な物言いになってしまったが簡単にいうと
「自分がやる気になってくれたら一番いいよね」
 っていうことなのである。
 しかしこれがなぜかうまくいかないので背景から考えたら案外根が深かったというお話でした。
 今回はこれで終わり。

(※トップの絵は自分で描いたパステル画です。
  Instagramもよろしくです → https://www.instagram.com/cokoly/ )

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