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メモ魔は、ステキ

 思考を整理することは重要である。
 混沌とした思考の大半は、取るに足りないようなテーマである。しかし、まれに、「お、これは。」というテーマが存在することがある。インターネットの世界に転がる情報は玉石混合だという通説のように、自分自身の混沌とした思考も玉石混合なのではないか、と思う。そして、人間の思考の「玉」は、シャボン玉のようなものである、と思う。
 インターネットに転がる情報は、いわば、ダイヤモンドの原石であると私は思う。実用書の情報は、削り、磨かれ、美しくカットされたダイヤモンドのようなものである。これらの情報は、「情報」として存在しており、探せば見つかるものであるともいえる。
 しかし、人間の思考は刺激に弱い。 
 自分自身の興味や関心がそのほかの場所へ移るだけで一瞬にして弾けて消えてしまうのである。「後で考えよう」だとか「後でこうしよう」というように考え、何か他の事を始めて何をしようとしていたかを忘れてしまう、というような経験を誰だって一度は経験したことがあるだろう。何かに目を向ける、という「刺激」が、それまでの「思考」を刺激し、消してしまうのだ。
 刺激を受け霧散した思考が、後々、重要なものとなるような思考であったとしたら、わたしは、それを勿体ないと思うだろう。0から1をつくることに比べれば、1から2へ思考をすすめることは容易であるのではないだろうか。霧散してしまう前に思考の一部を記録しておくことは、再設定するテーマを考えるという時間を省略することにつながる。いうなれば、思考の時短である。自分自身が思考を展開していく中で、やはりテーマを変えた方がいいと思うようになったとしても、思考の展開をある程度予測できていることから、0から考え直すことに比べれば、かかる時間は短くなりやすい。
 思考の展開にかける時間のことを考えれば、思考を霧散させないような工夫をすることが重要であることが分かる。そして、その具体的な工夫とはとてもシンプルだ。メモを取ることである。
 メモを取ることは、自分自身の思考を霧散させないようにすることであり、つまりは思考を整理することである。
 思考は整理することで価値をつけやすくなる、と思う。その時に、価値はないと思った思考でも、後々、価値が出てくる可能性だって否定はできない。だからこそ、思考を整理するためにメモを取り、記録しておくことが重要となるのだ。
 思考のメモとは、自分という人間の記録でもある、と思う。不思議なことに、人間は、同じような環境で同じような学習をしていても、全く違う考え方をする生き物なのだ。それはつまり、ホモ・サピエンスは個体ごとにオリジナルな思考をする生物であるということである。個体ごとにオリジナルな思考をしている生物であるのに、どうしてその個体性の記録を取らずにいられようか。
 メモという名の、自分という人間の記録をつける人の中でも、特にたくさんのメモを取る人のことをメモ魔と呼ぶそうだ。「魔」という漢字のイメージは、底知れなさからの恐怖のようなものを感じるものだけれども。
 メモ魔はステキ、とわたしは思う。


追記:思考が霧散することは、忘却とも表現できる。忘却に関しては、エビングハウスの忘却曲線が有名であろう。思考を霧散してしまうことも、エビングハウスの忘却曲線を考えれば納得である。

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