見出し画像

【短編小説】少年の旅

(1)少年の住む町の駅で

 ある町の大きな駅に少年がやってきました。

年の頃なら9歳から10歳といったところでしょうか。 

ずいぶんと仕立ての良いジャケットとパンツを身につけて、しわひとつなく手入れされたボタンダウンのシャツに青と緑のレジメンタルのネクタイを締めています。靴も足にぴったりと合った皮靴を履いています。そして、手には少年の体には大きい革の旅行カバンと、籐でできたかごを持っています。 

少年は切符を売っている窓口で
「白鷺町駅までお願いします」とはっきりとした丁寧な口調で駅員に話します。
「それから、猫の切符はここで買えますか?」とまた丁寧に窓口の駅員にたずねます。
駅員は「手荷物の切符で乗せられますよ。猫が怖がらないように布のようなものをかごにかけるといいかもしれませんね」と教えてくれました。

少年は旅行カバンと、かごを大事そうにそっと床におろすと、旅行カバンから財布を取り出しお金を払いました。窓口の職員から切符を受け取った少年は、
「ありがとうございます」とおじきをして、窓口から離れようとしました。駅員は少年に
「乗り場は3番線ですよ。9時14分発です。白鷺町までは5時間と少しかかりますがお昼は持ってきていますか?」とたずねました。
少年は「父がつぐみ駅のお弁当が美味しいから、買うと良いと教えてくれました。わざわざ教えていただきありがとうございます」とお礼を言い、駅員に向かってまたおじぎをしました。

この少年の一連の対応を見ていた私は、その少年のことが気になりました。こんなに身なりがよく礼儀正しい少年が、たった一人で何のために旅をするのか、とても興味を持ったのです。

そこで、幸い私も白鷺町方面へ行くので、彼にともに旅をする仲間にふさわしいと認めてもらえたら、少年と同行しようと思ったのでした。 

(2)少年との旅のはじまり

 少年は改札横の待合室に入り、旅行カバンからストールのようなものを取り出し、籐のかごにていねいにかけていました。少年のかけ方は実にていねいなのですが、やはり小さな少年らしく、あちらをかけるとこちらが落ち、少してこずっているようでした。
そこで私は少年のところに行き、「お手伝いしてもいいですか?」と聞いてみました。
すると少年は少し顔を赤らめ、「お願いします」と答えました。
私は少年からショールを受け取るとかごにショールをかけようとしましたが、そのショールがとても柔らかくて軽く、肌触りが良く、素人の私から見てもとても上質なものだと分かったのです。
そして、そのかごに入っているものが、実にきれいな猫だと気がついたのでした。真っ白の毛並みに、左目が晴れた日の湖のような青、右目が秋の満月のような金色だったのです。私は思わず、「とてもきれいな猫ですね。こんなにきれいな目は見たことがない」といいました。
少年はうれしそうに、
「ありがとうございます。ぼくの大切な猫なんです。」にっこりと笑いました。
猫のかごは上に持ち手がついているので、広げたショールの上にかごを置き、上で結ぶように包みました。
「ありがとうございます。とても助かりました」少年はお礼を言い、上着のポケットからキャラメルの箱を出し、
「お礼です。よろしければ召し上がってください」と私に2粒のキャラメルを渡してくれたのでした。
「ありがとう。キャラメルは私の大好物ですよ」というと、少年ははにかんだような笑顔を見せました。 

「坊っちゃんはどちらまで行くのですか」知っていましたが、聞いてみました。
「白鷺町まで行きます。一人で行くのは初めてなので、ドキドキしています」と少年らしい顔で言いました。
「私は白鷺町の先のかささぎ駅まで行くのですが、よろしければご一緒しても構いませんか?」そう言うと、少年の顔はぱっと明るくなり、ほっとしたような表情を浮かべて、
「いいんですか。ご迷惑でなければよろしくお願いします」と言いました。「こちらこそよろしくお願いします」と少年に手を差し出すと、少年も手を差し出し、私たちは旅の仲間として、固く握手をしました。

 

「それでは、早速ホームまで行きましょうか」
すると少年は、「はい」と返事をして、カバンとかごを持ち歩きだしました。
「両手に荷物を持っていては、改札で駅員さんに切符が渡せませんね。列車に乗るまでどちらか持ちましょうか」と言いました。
すると少年は
「それでは大変ではありませんか?」と私を気遣ってくれたのでした。
「私の荷物はこの肩掛けカバンひとつですから、全然大変ではありませんよ」というと少年はほっとした表情をし、
「では、カバンをお願いします」と言うので、旅行カバンを受け取りました。
そのカバンはこの年の子どもが持つには少し重すぎるような気がしました。きっと中には大切なものがたくさん入っているのでしょう。私はこのかばんを大事に運ぶようにしようと思いました。 

(3)列車の旅

 私たちは改札を通り、ホームへと向かいました。ホームにはたくさんの人がいて、皆、自分が乗る車両を探していました。

「坊っちゃんは何等室ですか」と尋ねると、「一等室です」と返事がありました。窓口で一等を買っておいて良かったと思いながら、
「私も一等ですよ。一緒に座れるように車掌さんに席を変更してもらいましょう」と少年に言いました。少年は安心したような笑顔でうなずきました。

私たちが乗る一等車両を見つけると、まず少年を乗せ、荷物を乗せてから自分が乗りこみます。少年は猫のかごをとても大事そうに、周りにぶつけないように、気をつけながら車両に入っていきます。

席を見つけると、少年の旅行カバンを足元に置き、少年は猫のかごを自分の横に置きました。
「猫はここに置いて大丈夫でしょうか?」少年が不安そうに聞くので、
「人が乗って来なければ乗せていてもいいのではないですか」と答えました。
少年は席に座ってやっと少し落ち着いたようで、猫の様子を見ていました。

「落ち着いたところで、坊っちゃんの名前を伺ってもいいですか?」と尋ねると、少年ははっとしたように、向かいに座っている私に向き直り、
「失礼しました。ぼくは『ゆきひと』と言います。9歳です」
「ゆきひとくん、どのような字を書きますか?」再びたずねると
「幸福の幸に仁愛の仁です」と年齢らしからぬ答えが返ってきました。
「幸仁くんですね。承知しました。私の名前はハセガワシンタロウと言います。29歳です。あらためてよろしくお願いします。」
「ハセガワシンタロウさん。どのような字を書かれるのですか」今度は幸仁くんから聞かれました。
「長谷寺の長谷に荒川の川、慎重の慎に桃太郎の太郎です」と答えると
「桃太郎なんですね」とふわっと笑い、
「長谷川さんとお呼びしていいですか?」と聞くので、
「慎太郎」でもいいですよと答えると「慎太郎さん」と口に出して言い、「慎太郎さんとお呼びします」となんだかうれしそうに言うのでした。 

それから、幸仁くんは「この子はしらたまと言います」と猫の紹介をしてくれました。
「しらたまは2歳でぼくの弟です」そう紹介されたにしらたまに
「しらたまくん、よろしくね」というとしらたまは「にゃー」とあいさつを返してくれました。
「しらたまは本当にきれいな猫ですね。それにとてもおとなしくて、賢そうですね」
しらたまをほめられた幸仁くんはとてもうれしそうに笑いました。
「しらたまは祖母のご近所の方の家で生まれた猫で、3匹も生まれたので祖母に飼えないかと相談されたそうです。それでぼくが飼うことにしたんです。しらたまの兄弟はさば柄の子と三毛の子だったそうです。2匹は祖母の家の近くで飼われているそうです。みんなに家が見つかってよかったです」とてもうれしそうに幸仁くんは言いました。
「幸仁くんのおばあさまはお近くに住まわれているのですか?」と聞くと、
「祖父と祖母は白鷺町に住んでいます」
「ああ、だから今日は白鷺町に行くのですね」
「父と母は仕事で外国へ行くので、しらたまが大きくなったこともお知らせしたいと思って祖母のところへ伺います」
「ご両親がご旅行中でも、幸仁くんの家にはお手伝いさんやお世話をしてくださる方もいるのではないですか」
「はい、います。でもこういうときでないと、ひとりで列車に乗るようなことはできないと思って、思い切って旅に出ることにしました。ぼくの家庭教師がついていくと言いましたが、一人で行きたいとちょっとわがままを言いました」そういうと幸仁くんはいたずらっぽく笑いました。
「思い切って一人旅行ですね。たまにはそういうこともいいですね。」

 話している間に、発車のアナウンスがあり、発車の警笛が鳴り、列車はゆっくりと動き出しました。
「数年前まではこの列車も蒸気機関車だったのですが、最近、ディーゼル車に変わりました」
「慎太郎さんはよく旅をされるのですか」
「ええ、たまにですが、取材を兼ねて全国のあちらこちらに旅行します」
「取材とは新聞記者さんですか。」
私が一瞬答えに詰まると、
「ごめんなさい。いろいろ聞いてしまって」幸仁くんは申し訳なさそうに謝りました。
「いえいえ、お気になさらず。そうですね、記者ではなく、作家といった方が近いかもしれないですね」そう言うと幸仁くんは、

「作家さん!すごいですね。文章を書く才能があるなんてすばらしいですね」幸仁くんは心の底からそう思っているように感心していました。 

話しているうちに車掌が車内改札に回ってきたので、事情を話し、席を変更してもらいました。車掌はちらりと見えたしらたまを見て、
「これはきれいな猫ですね。坊っちゃんの猫ですか。私も猫を飼っているのですが普通の茶トラの猫ですよ」と言いました。
すると幸仁くんは
「猫はどんな猫でも世界でただ一匹の代わりのいない大切なものだと教えてもらいました。車掌さんの猫も世界一の猫だと思います」というのです。これに車掌は驚いて、
「うちの猫が世界で一匹の猫なんて考えたこともありませんでした。今日うちに帰ったら家族に話して聞かせますよ」と言い、「どうか良い旅を」と笑顔で改札に戻っていきました。 

「少し喉が渇きましたね。幸仁くんは飲むものは持ってきていますか?」「はい、魔法瓶にお茶を入れて持ってきています」
そういってカバンから青いタータンチェックの魔法瓶を取り出しました。
「おや、私も魔法瓶にお茶を入れてきましたよ」
と緑色の魔法瓶をカバンから出すと、幸仁くんは
「同じですね!なんだかうれしいです」

幸仁くんはそういうと席の前についている、小さなテーブルに魔法瓶のふたを置き、魔法瓶の栓を慎重に開けて、コップ代わりのふたに慎重にお茶を注ぎました。そして、両手でコップをそっと持つとお茶を飲みました。

「上手に注げるのですね。ご家庭でのお教えがとても丁寧なのがよく分かります」
「ぼくの家庭教師は、外で恥ずかしい思いをしないようにぼくにいろいろなことを教えてくださいます」
「幸仁くんの家庭教師は若い方ですか」
「いいえ、父よりも年上の方です。厳しいですが、とてもユーモアのある優しいところもあります」
「家庭教師というからには、てっきり若い大学生なのかと思いました」
「本当は家庭教師ではなくて、私の教育係という感じでしょうか」
「幸仁くんのおうちは、私が思っているよりもずいぶんと上流のご家庭のようですね」
「うーん、どうなんでしょうか。ぼくは生まれたときからぼくの家しか知らないので、よく分からないです」

幸仁くんの先ほどまでの笑顔が少し曇ったように感じました。言わなければよかったかと私は少し後悔しました。

幸仁くんは「お手洗いに行ってきます。しらたまをよろしくお願いします」と言って席を立ちました。
「一人で大丈夫ですか」「大丈夫です」と隣の車両に行きました。
 

ここで、私は改札を通る時から、気になっていた一人の男性に目を向けました。

その男性は幸仁くんが向かったのとは反対の車両から、私たちのことを見ていました。私と目が合うと男性は会釈をして、私に近づいてきました。
「初めまして、突然で申し訳ありません。私は岸本と言います」
「幸仁くんの教育係の方ですよね。雉町駅からついて来ているのは分かっていました。あれほどの教育を受けている方を本当に一人で旅をさせられるわけがない。よほどの身分の方なのでしょう」
「そうです。幸仁さまに万が一のことがあれば、私はわが身をもってお詫びしなければならないのです」
「分かりました。幸仁くんが帰ってくるまでに話を終わらせましょう。私は彼に危害を加えたり、誘拐するような意図は全くありません。ただ、幸仁くんの旅が彼にとって良い思い出になるようにお手伝いがしたい、ただそれだけです。」
「先ほどまでのあなたの行動を見て、悪意がないことは分かりました。しかし、やはりあなたの身上は確認しなければならないのです」
「私は作家です。取材の際に使う名刺がありますのでこれをお渡しします。文芸誌にも長いこと連載を書いているので、出版社で身元の確認をしていただいても構いません」
男性は、まだ何か言いたげだったが、
「幸仁くんが帰ってきてしまいますよ。あなたがいることが分かったら、せっかくの一人旅が台無しになってしまいます」
男性は「よろしくお願いいたします」と言い、心残りがある様子で隣の車両に戻っていきました。 

しばらくして戻ってきた幸仁くんは
「次は翡翠駅だとアナウンスがありました。翡翠駅の次はつぐみ駅ですよね。そこでお弁当を買いたいです。父がそこの駅弁はとてもおいしいと言っていました」
「そうですね。つぐみ駅にはおいしいお弁当がたくさんあります。停車時間も長いのでホームへ買いに行きましょう」
「しらたまは席においていて大丈夫でしょうか」
「多分、大丈夫です。誰か見ていてくれる人がいるでしょう」
私は隣の車両の男性を思いながらそう言いました。 

(4)天上のアイスクリーム

 つぐみ駅での停車は7分。乗降口に近い駅の売店で駅弁を買うことにしました。私は幕の内弁当を選び、会計をしようと店員にお金を払おうとしました。幸仁くんはまだ決められないらしく、いろいろと見て悩んでいるようでした。
私は売店であるものを見つけ、それを二人分買うことにしました。
少し離れた所で待っていた私のところに、
「すみません。お待たせしました」と戻って来ました。
「気に入ったものが買えましたか」と尋ねると、
「はい、はじめてお弁当を自分で買いました」とうれしそうに笑いました。 

列車に戻り、「しらたまのご飯も用意しなくては」と、カバンからお弁当箱に入った鶏のささみの茹でたものを紙皿に乗せてしらたまのかごに入れました。しらたまはこぼすことなく行儀よくそれを食べていました。
「準備がいいですね」と言った私に、「しらたまは、ぼくの家族なので当然のことです」としっかりとした態度で言いました。 

お弁当を開けようとする幸仁くんに「実はデザートを買いました」とカップ入りのアイスクリームをテーブルの上に置きました。
幸仁くんは「ええ!アイスクリームですね!ありがとうございます。でも早く食べないと溶けてしまいます」
「そのとおり。だから今日はデザートを先に食べてしまいましょう」
と言うと、びっくりしたように私の顔を見て、
「そんなことをして叱られませんか」と聞くのです。
「今日はあなたと私の二人きりです。言わなければ誰にもばれはしませんよ」と言うと「今日は特別ですね」とにっこり笑って、アイスクリームを手に取りました。秋とはいえ、列車の中は暖かく、アイスクリームを食べるにはちょうどいい温度でした。 

「アイスクリームってどうしてこんなにおいしいのでしょう」
「やはり冷たくて甘いというのが一番の理由ではないですか」などと話しながら二人でアイスクリームを食べていたのですが、幸仁くんが突然、
「宮沢賢治の『永訣の朝』をご存じですか」と聞いてきたのです。
「『今日のうちに遠くへ行ってしまうわたくしの妹よ』ですね」
「そうです。『あめゆじゆとてちてけんじゃ』という妹に宮沢賢治がお椀に雪を持ってくるんです。ぼくが最初に読んだ『永訣の朝』は『どうかこれが天上のアイクリームになって、おまえとみんなとに聖い資糧をもたらすように、わたくしのすべての幸いをかけて願う』と書かれていたんですが、別の本では『どうかこれが兜卒の天の食に変って、やがてはおまえとみんなとに聖い資糧をもたらすことを、わたくしのすべての幸いをかけてねがう』となっていたんです」アイスクリームを食べながら幸仁くんは話し出しました。
ぼくは『天上のアイスクリームになって』という表現がとても好きなのですが、宮沢賢治自身が『兜卒の天の食に変って』と直したと聞きました」
「アイスクリームという即物的なものではなく、弥勒菩薩が住む兜率天の食に変えたのではないかということでしたね」
「ぼくの立場もこうでなければいけないと言われました。広く人のために祈りを捧げられる人になりなさいということです」
そういう少年の顔は年齢よりもずっと大人の顔をしていました。
「今は、私と幸仁くん、二人の天上のアイスクリームでいいのではないですか。アイスクリームは冷たくて甘くておいしい!」それを聞いて幸仁くんの表情が少し和らいだように見えました。 

(5)少年と私のつながり

 アイスクリームを食べ、お弁当を食べた私たちはずいぶんと満足な気持ちになって列車に揺られていました。

私はしらたまのかごを包んでいるショールについて、聞いてみたいことがありました。
「そのショールはお母さまからの贈り物ですか」
「これは祖母からいただいたものです。祖母はぼくが生まれたときにとても喜んで、おくるみの代わりになるショールをイギリスから取り寄せたそうです。今は、勉強をするときにひざ掛けとして使ったりしています。寒いといけないと思って持ってきましたが、しらたまの役に立ってよかったです」「おばあさまは幸仁くんのことを本当に大事に思っていらっしゃるんですね」
「教育係をつけてくれたのも、祖父と祖母です。ぼくが将来困らないように」
「大切にされているのですね」
「祖母はいつもにこにこしていて、穏やかな方です。とてもお嬢様の育ちで、裁縫や料理、編み物、日本画、短歌などとても多彩な方です。祖父も祖母のことをとても大切にしていて、いつも二人で散歩をしていらっしゃいます。」
「おばあさまは素敵な方なのですね」
「はい、誰よりもぼくのことを大切にしてくださいます。祖父は普段は凛としていて、優しさとユーモアがあり、私のことも特別に気にかけてくださいます。本当に尊敬できる方です。」
「素敵なおじいさまとおばあさまですね。ところで、おばあさまのショールなんですが、私の母も似たようなものを持っていたんです。あれも英国製だと言っていました。やはりこのショールのように軽くて暖かく、肌触りがとても良かった。もっとも母は獅子王町の百貨店で買ったと言っていましたが」
「もしかして、同じ会社のものだったりするんでしょうか」
「まさか、私の母が持っていたものと、幸仁くんのおばあさまが取り寄せたものは同じではないでしょう。格が違い過ぎます」
「そうでしょうか。祖母のショールと慎太郎さんのお母様のショールが同じところで作られて、今、僕と慎太郎さんが一緒に旅をしていたら、すばらしい偶然だと思いませんか。まるでイギリスの冒険をするお話のようです」
「そうだったら、本当に物語のようですね。そうかもしれないと思ってしまいますね。幸仁くんはイギリスの児童文学がお好きなのですか?」
「はい、好きでよく読んでいます。特にナルニア国物語が好きです。いつかイギリスに行ってみたいと思っています」
「イギリスは私も行ってみたいと思っています。幸仁くんは将来、留学されたらどうですか」
「留学したいです。ぼく一人では決められないけれど、慎太郎さんと一緒に行けたら楽しそうです」
そのとき、かごの中のしらたまが「にゃうん」と鳴いて、ショールの一部分を掻くような仕草をしたのです。その部分をよく見ると、黒猫の刺繍がされていました。それを見たとき私は母のショールにも同じ刺繍があったことを思い出したのです。
そのことを幸仁くんに伝えるととてもうれしそうに
「やはり同じ会社のショールなんですね。しらたまはきっとそれが分かっていたんですよ」
そんな不思議なことがあるのかと、しらたまの目を見ていると、しらたまが私に向かって、ゆっくりと目をつむってみせたのです。そして、また一言「にゃおん」と鳴いたのでした。ただの偶然なのか、それともしらたまに特別な力があるのか、私はとても不思議な気分になったのでした。

私と幸仁くんが今日、駅で一緒になったことさえ、もしかしたら何か見えない力で引き寄せられたのではないかと思えるほどでした。 

それから、私と幸仁くんは列車に揺られながら、私の仕事の話をし、幸仁くんの学校での話を聞き、いろいろな話をして、笑い、また真剣に話し合い、二人でおやつを食べ、充実した時間を過ごしました。幸仁くんがおばあさまのお土産にバウムクーヘンを買ったドイツ菓子のお店のケーキは、どれが好きかというような他愛のない話でも私たちはたくさんの話が出来たのでした。 

(6)旅の終わりに

 「鴎駅を過ぎましたね。あと2駅で白鷺町に着きます。駅にはどなたかがお迎えに来られるのですか?」
「祖父の秘書の方が迎えに来られるそうです。列車が着くホームで待っていると言っていました」
「それならば心配がありませんね。列車を降りるときは、私がカバンを持って秘書の方にお渡ししましょう」
「とても楽しかった旅が終わってしまうのはとてもさみしいです。もっと慎太郎さんとお話がしたいです。今日、慎太郎さんとお会いできたのは本当に幸運でした。また、お会いできますか?」
「会いたいと願えば会えるでしょう。私の連絡先は少し調べれば分かると思いますので、いつでも連絡してください。私も幸仁くんとの旅はとても楽しかったです。しらたまともまた会いたいですしね」
そういってかごをのぞくとしらたまが「にゃん」と鳴いて尻尾をゆらりと揺らしました。
「しらたまも慎太郎さんが好きなんですよ。ね、しらたま」幸仁くんは子どもらしく言いました。 

荷物の整理をしていると間もなく白鷺町に到着するというアナウンスがあり、私たちは降車口に向かいました。

駅について幸仁くんを先に降車させ、あとから旅行カバンを持って私が降りました。降り口の前には、隙のない雰囲気を漂わせた男性が一人と、柔和な笑顔の女性が一人待っていました。幸仁くんは二人に一礼してから女性のほうに歩み寄り、何か話をしていました。私が男性にカバンを差し出すと、男性は小声で
「岸本からすべて聞いております。大変お世話になりました」
と私に向かって深々とおじきをしました。それから、
「それでは失礼いたします」と立ち去ろうとしました。
そのとき幸仁くんが
「慎太郎さん、ありがとうございました。またお会いできることを願います」と手を差し出しました。
私も手を差し出し、二人の旅の終わりに固い握手をしました。それから私にお辞儀をしたのです。私もつられてお辞儀をし、幸仁くんの顔を見ると先ほどまでの少年らしい無邪気さは姿を消し、少し大人の顔をした幸仁さんがそこにいたのです。 

私は列車の乗降口で幸仁さんに手を振りました。幸仁さんも手を振り返していました。

列車の中から、小さくなっていく幸仁さんを見ながら、今後、彼と会うことはあるのだろうかと考えていました。 

(7)これからの少年と私

 1カ月後、私の元に手紙が届きました。差出人は「幸仁」とありました。

旅がとても楽しかったことと私へのお礼と、祖父と祖母に私の話をしたら驚かれたけれども、良い経験ができたと言ってもらえたこと。岸本さんがついてきていることは途中から気がついていたこと。しかし、これは自分の立場上仕方のないことであることなど、幸仁さんの気持ちが綴られていました。そして、もし事情が許すならば、また私と会いたいことも書かれていました。9歳という年齢以上にていねいで美しい筆跡で綴られたその手紙は、彼の置かれた立場の重さや難しさを表しているように思えました。 

一生に一度の少年との旅。これは私にとってもとても思い出深い体験となったのです。

(了)

いただいたサポートは今後の創作活動に使わせていただきます!