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不登校体験が影響した、その後の『生きづらさ』について語る。その1

こんばんは、コハルです。
高校時代に不登校を経験している私。
どうにか高校卒業まで辿り着きましたが、その後もスムーズにはいかず(^_^;)
今回は、高校卒業からの1年間について書いていこうと思います。

高校時代のエピソードはこちらから↓

私には必要だった。『浪人生』の肩書き。

親の期待を感じ取り、大学受験をしたものの不合格だった私。不合格は私にとって嬉しいもので、「あの集団に入らずに済んだ」と思っていました。この頃は対人恐怖が続いていたので集団に所属することへの恐怖は強かったです。
また、不合格になり【浪人生】という肩書きを手に入れました(笑)

何もしていないと[役立たない人間]になりそうで、受験勉強を続けて【浪人生である私】になろうとしました。(自己価値の低さが影響していたかも…)
対人恐怖から外出ができないので日中も自宅で過ごすことが多く、状況的には引きこもりになります。しかし、勉強さえしていれば【浪人生】でいられました。
あの頃の私には【浪人生】という肩書きが自分の中の何かを保つことに役立っていたと思います。

外出への恐怖をどうやって和らげていくか?

対人恐怖による外出時の不安は強く、徐々に“家からの距離”や“行き先”を増やしていった記憶があります。
①日中に近所を散歩
②徒歩5分のスーパーに出かける
③徒歩15分圏内へ
というふうに自分自身で段階付けをしていました。
不登校時代の影響で、恐怖対象が同年代になっていたので同年代の方が行きそうな場所や時間帯を避けて慣らしました。

また、私の外出を助けてくれたアイテムが【イヤホン】です。
「悪口を言われてないかな?」「もしかして私のことを笑っている?」
当時の私は過敏になっており、周囲の音や話し声に反応しやすくなっていました。
イヤホンで外部の音や声を遮断して、安心感が持てるように工夫しています。

『話せる場所』も私に必要だった

高校時代に私のカウンセリングを担当していたスクールカウンセラーの先生とは、卒業後も連絡をとっていました。卒業前の私の状態を踏まえて今後も関わりが必要だと判断して頂け、先生が所属する「サポートステーション」を教えてもらいました。定期的に面談を行い、その時の体調報告や困りごとの相談を繰り返しています。
両親には言いづらいことも相談できる場所があり、自分の考えや感情を吐き出せる場所として機能していました。

自宅では受験勉強を継続して、自宅で過ごすことへの意味を持たせる。
サポートステーションへ出掛け、個別面談を受ける。
時々、外出の練習をして活動範囲を広げる。
私が高校卒業後の1年間で行なってきた主な内容はこのような感じです。

専門学校を受験。結果は…

高校卒業から1年後、私は作業療法士を目指して専門学校受験の申し込みを行いました。受験日当日、母親に送迎してもらい学校の前に到着。

会場に向かわないと…
なんか胸が痛い。車から降りるのが怖い。
人が多かったらどうしよう…
あれ、なんか悲しい。泣けてきた。
体は震えるし、涙も止まらない。

結局、私は車から降りることができずに受験を断念。
母親には「受験料かかっているんだよ」と言われましたが、恐怖でいっぱいな私にはお金の事は関係なく、ただただ強い恐怖を感じていました。

高校卒業から1年後の私は。

高校卒業から1年経っても、私の中の記憶は薄れずに対人恐怖は強く残っているまま。どうにしなければと自分でわかっていても、どうすることもできずにいました。
環境を変えることで、症状や恐怖心が薄れる方も居るかと思いますが、私の場合は高校時代のトラウマは消えずにその後の生活に影響していました。

ある意味、これはトラウマ記憶の残りやすさを表していると思います。
専門学校受験ができない私を見た際に、母親は「まだこんなに辛いの?」と驚いていました。母の中では卒業から1年経っているし、ここまで反応するとは思いもよらなかったようです。親が感じている時間の流れと、私が感じているトラウマ体験との距離には感じ方に大きな差があったと思います。

専門学校入学まではもう1年かかりました。
次回は、2年目の記録を書き記します(^^)
最後まで読んで頂きありがとうございました!

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