【コギトの本棚・エッセイ】 「留学時代のこと」
年が明けました。
去年と変わらずご愛顧のほどを。
さて、わたくしはと言えば、年末から年始にかけ原稿を仕上げねばならず、正月らしいことは実家に帰りモチを一度食べたことくらいでしょうか。
あとは原稿書きです。
いや、正月らしいことではないですが、去年末同窓会がありました。中学高校と一貫校でしかも男子校、オッサンばかりが雁首をそろえ、会場には女性がただの一人もいないという奇異な同窓会です。
高校を卒業して以来ほとんど同級生とは縁が切れていたので、彼らとは実に二十数年ぶりに顔を合わせることとあいなったわけですが、十代の六年間はおそらく魔法がかかってるんでしょうね、数秒とかからず当時の雰囲気がそのままよみがえってきました。
と言っても顔を覚えていない同窓生もちらほら、なんとか記憶の糸を手繰り寄せていたのですが、その中の一人の顔を見て、忘れていた記憶が突然はっと蘇りました。
それは中学高校時代の思い出ではありません。
僕は二十歳から二十二歳までイギリスにおりました。留学とは名ばかりの放蕩時代なわけですが、現在の仕事につながるあれやこれやの原点となっていたりします。
濃密さで言えば、現在とは比べ物にならないほど。あれ、この前大掃除したよなと、最近いつも年末に思うのですが、当時は違います。一年が今の三年くらいに換算できてしまうのではないかと錯覚するほど毎日がハプニングの連続でした。
そんな放蕩時代のある日、僕はピカデリーサーカス辺りをフラフラしていた時のこと。
リージェントストリートはいつものように混雑していて、人をよけながら歩いていくと、急に目の前のアジア人に目が止まりました。
「あ」
と僕が声を上げると、向こうも「あ」と僕を指さしています。
中学高校の同級生とばったり鉢合わせたのです。
僕はとにかくくじ運が悪くて、宝くじなんて買っても千円単位ですら当たる気がしません。ゆえにおみくじも毎年絶対に引いたりしないのですが、でも、ロンドンのストリートでばったり高校の同級生に出くわすようなよくわからない運をもっていたりします。
宝くじの高額当選と異国の地での邂逅はどちらの確率が高いのでしょうか、数学者に聞いてみたいもんです。
でも、これだけではありません。
数日と待たず、また同じ通りを歩いているときです。若いアジア人女性とすれ違いました。すれ違った後、僕は思わず振り返りました。すると向こうも同じく驚いた表情で振り返っているではありませんか。
それは、小学校の同級生、しかもちょっと憧れていたマドンナ的存在。でもああいう時は不思議ですね、「おう、うん、ああ、ああ、そうなんだ、だよね、うんうん、じゃあ、じゃあ、またね」
と、よくわからない挨拶をお互いかわし、そのまま別れたのです。今のように携帯やネットが普及している時代でもないので、そのまま別れてしまえば、再びどこかで会える確率はそれこそ宝くじ並。その証拠にそれ以来その女の子に僕は会ったことがないわけですが、でも、考えてみればそういう反応が正常だったりするのかもしれません。
一万キロ離れた遠い国で、その瞬間にそれまで会おうともしなかった知人と会うことを、僕はどれほど驚いていいのやら、どれほど平常を保っていいのやら、よくわかりません。
しかし、僕は時々考えます。
人が移動したその時間的空間的道程を、仮にログできる地図があるとして、僕たちはその地図上で思わぬ奇跡を起こしているかもしれないと。
それは気付かないだけで、まさに宝くじに当たるよりも希少な出来事なのかもしれません。
いやいや、ひもとけば、生まれることそのものがそもそも奇跡的出来事なのだし、今この瞬間にここにいるということが無限の奇跡的時間の集積だったりして、僕はこういうことを考え出すと頭がクラクラしてきてしまいます。
あらかじめ約束された同窓会で会うべくして会った名前も忘れていた同級生の顔を見たことに端を発し、図らずも偶然について新年から思いを馳せてしまいました。
よくわかりませんが、せっかくの新年だしめでたい話でも書こうかと思ったのですが、なんだかとりとめがなくなってしまいました。
出会いだの、奇跡だの、運命だのは、少々口はばったい気もします。
けれども時々それらについて考えざるを得ない出来事が起こります。そしてそれらをなんと呼ぶかというと、やっぱりどうしても奇跡や運命と呼ぶしかないのです。
いながききよたか【Archive】2017.01.19
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