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『箱男と、ベルリンへ行く。』(九)

『2月17日、朝。おれ、もつか?』
 
「せっかくベルリンに行ったんだから、それについて書いておけ」というのは、関さんからの言葉です。
「ベルリンに行った」というのは、「映画「箱男」がベルリン国際映画祭でワールドプレミアを迎え、そこに同行した」という意味も含んでいます。
それで、そのことについて書き始めたはずですが、気付けば八回も回を重ねてしまいました。
数回かけてなんとかベルリンに上陸したものの、いまだ、本来の目的であるはずの「ワールドプレミア」にはたどり着けておりません。
そして、九回、「ワールドプレミア」にたどり着けるのか、それはまだわかりません。
 

17日の朝、最寄りのパティスリー。おいしそう!
でも、残念ながら、私は小麦が苦手。コーヒーでがまん。

というのも、普段言葉を使っている者として、痛切に感じることがあります。それは何かを説明しようと懸命に言葉を尽くせば尽くすほど、説明しようとする対象に近づくばかりか、つかずはなれず回りをぐるぐると旋回するだけで、それどころか時には離れてしまったり、唐突にまったく見当違いの別の話を始めてしまったり、結局、中心にたどり着けず途中で疲れてしまう……、次第にこんな徒労に快感さえ覚えている自分に気付いて驚いたりもして、これを「差延と反復」などと頭よさげに言ってみてもいいわけですが、とにかく、そういうことを私は好ましく感じていることは事実で、それをここで実現しようとしたわけでもありませんが、知らず知らずのうちに回を重ねてしまっています。
そうしてとうとう今回、ワールドプレミアの朝を迎えたわけです。 


寝起きの私と三峰さん。先ほどの店でコーヒーを調達しました。
案の定、パティスリーのお母さんは英語通じず。
関さんは、多分まだ寝てますね。


いつの回か忘れてしまいましたが、「その日」に何を着るかという問題をなんとかクリアしたということには触れたと思います。ただし、それはあくまでビジビリティのお話し。実際その日に何を着るかということについては、生の身体性が大きく関わります。
実は、前日の夜から、わたし達オジさん三人は、当日着るキレイなおべべの上に上着を羽織るか、羽織らないかという話題でおおもめでした。
いや、その議論はすでに出発前から始まっていたと言っても過言ではありません。


まったく関係ありませんが、突如マドンソクッシ。
ベルリンに来るという噂。


 コギトの経営戦略本部長かつ国際部本部長であるところの三峰さんは、若い頃から海外経験が豊富なはず、渡航豊富ということは、旅行上手なはず、旅行上手ということは手荷物の整理も上手なはず、たしかに手荷物の整理はお上手でしょう、が、とにかく荷物が多い方です。まあ、関さんと三峰さんは、ベルリンの後、ロンドンでもお仕事があるそうで、ロングトリップになることから手荷物が多くなることは必然としても、それにしても三峰さんはいつも大荷物を抱えて日本と海外を行き来することで有名なのです。さながら、ご自分の部屋をそのまま海外へと持ち運びたがっているかのようにさえ見えます。
で、その三峰さんに対して、とにかくビジネストリップの経験が乏しい私が、「なにを持って行くといいですかね」とやたらと質問するのですが、三峰さんは「何を持って行きます?」とオウム返し。
私「ちなみに、靴どうします?」
三峰「スニーカーとブーツと革靴とサンダルを持って行こうと思ってます」
私「(そんなにいるか?)なるほど、それだけ必要なんですねぇ」と、すかさず関さんが横やりをいれます。
関「そんなにいらねえだろ! おれはブーツ一足でいくぞ、それで充分だ!」と、また男前ミニマリスト気取りを発揮するのです。
私は密かに決意します。「スニーカーと革靴だけは持って行こう……」
どうでしょう、このベルリンに持って行こうとする靴の数で、おわかりのように、われら三人のバランスは、とにかく三峰さんはポジ。大して関さんはネガ、そして私はとにかく中庸……。
(結果、三峰さんは革靴をやめて、スニーカーとブーツとサンダルの三足、生一本の関さんは初志貫徹ブーツ一足。私は間をとって革靴とスニーカー二足をスーツに詰め込みました)

これは数日後、私が帰国した後の関さん。たしかにずっとブーツ。

 その日、何が問題だったかというと、映画「箱男」の上映はなんと22時30開場23時上映開始予定、一方我々の行動開始は朝の8時前、16時間もの間着慣れぬスーツ姿、その上ベルリンの2月はそれ相当に寒い、それをしのぐための上着を着るか否かということ、つまり、気温と服装ということがさしあたっての問題だったのです。
確かに、一日を通して、外にいる時間は短いかもしれません(それにしたって、それはまだ未知数、なんたって、詳細なスケジュールはまだなにも知らされていない状態だったのですから!)いずれにせよ、外と内を行き来することでしょう。私が唯一持って行ったダウンジャケットを着ていけば、屋外での寒さはしのげても、それはそれで取り回しが不自由、しかし、なきゃないで一日中寒い思いをしなければならないかもしれない、しかし……。若い頃は平気でしたが、歳を取るごとに寒さが苦手になり、身体が冷えると体調を崩しがち、体調を崩したまま、巨大な劇場で、強敵映画「箱男」を緊張しながら、海外のお客様とともに鑑賞する、そのことを想像すると寒さ以上の身震いが起こります。かと言って、かりにレッドカーペットを歩くとなれば、ダウンジャケット片手に練り歩くのも相当にかっこ悪い……、クロークがあるとも限りません。(事実、数時間後、レッドカーペットを歩くことになりますが、導線はすべて一方通行、荷物は可能な限り自己管理が望ましいと言われたりします)うーむ、悩む、上着を着るや着ざるや……。 


悩ましい。


男前ミニマリスト関さんは、当然、上着なし派を早々に決め、その日の晴れ着に身を包みます。というか、あたかも渡航前からの既定路線だったかのように宣っています。三峰さんは、結局迷いながら、「そうですよね、上着、邪魔ですよね」と、上着なし派に一票。
私「(いや、上着いるやろ、しかし)……」そう、寒さが嫌いであると同時に、私は外出中、手荷物に煩わされることが極度に嫌い。室内外の往来による上着の脱ぎ着が極めて煩わしいことを知ってもいます。
私は……、ひとまず先述の戦闘服に身を包み、ひとまずBnBを出てみました。戸外で、ベルリン早朝の風に当たりながら、煙草を一服。ベルリンの2月は極寒のはずですが、その日は不思議と陽気がよく、「ワンチャン、上着なしでもいけるかも」という雰囲気。
ただし、その時の私は、いわばヨーロッパの室内の快適さにだまされていました。
ヨーロッパの北国の室内は、えてしてオイルヒーティング完備、コックをひねればあっという間に室内はヌクヌクになります。そのヌクヌクをまとったまま、一服程度の時間、戸外の冷気に当たったところで、まだ身体はヌクヌクのまま、うまいことだまされているという次第。その時の私は自己欺瞞に気付かず、お気楽に上着なし派に宗旨替え。 


関さん、かっこいいですね。


「やっぱ、上着なしでいくわ」と私が言うと、「だろ?」とやや満足げな関さん。なにが「だろ?」なのかよく分かりませんが、とにかく、わたし達は軽装のまま一路、大本営宿営地へと赴いたのです。

なにをしているのでしょうか。
まさか、ネクタイを直してあげている?
いえ、ミニチュア箱男を直して上げているところです。

せっかくだから地下鉄に乗って行こうということで、ベディング駅とは反対の最寄り駅、Humboldthain駅に向かいました。
その道すがら、ヌクヌクだった身体はものの5分でみるみる冷えていきます。にわかに不安が沸き起こります。
「おれ、もつか?」
のっけから、なんとも不安な立ち上がり、私はこの生涯でも有数の長い一日を無事乗り切れるのでしょうか。

まだ余裕の私と、ミニチュア箱男撮影に余念がない関さん。
Humboldthain駅前です。

(いながききよたか)


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