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【コギトの本棚・小説】 「Yer Blues」 誰もが知るあの名曲からタイトルを拝借して仕立てる掌編小説

Yes I’m lonely wanna die
Yes I’m lonely wanna die
If I ain’t dead already
Ooh girl you know the reason why.

My father was of the sky
My mother was of the earth
But I am of the universe
And you know what it’s worth
I’m lonely wanna die
If I ain’t dead already
Ooh girl you know the reason why.

The eagle picks my eyes
The worm he licks my bones
I feel so suicidal Just like Dylan’s Mr. Jones
Lonely wanna die
If I ain’t dead already
Ooh girl you know the reason why.

Black cloud crossed my mind
Blue mist round my soul
Feel so suicidal
Even hate my rock and roll
Wanna die yeah wanna die
If I ain’t dead already
Ooh girl you know the reason why.

さびしい、死にたい
さびしい、死にたい
まだ死ねないとしたら、
ふう、なぜかわかるだろう

お父さんは空
お母さんは大地
僕は宇宙
でも、そんなことに価値はない
さびしい、死にたい
まだ、死ねないとしたら、
ふう、なぜかわかるだろう

鷲が僕の目をついばみ
ウジが骨までねぶる
なにもかもどうでもいい
ディランのミスタージョーンズ
みたいに
さびしいから死にたい
まだ死ねないとしたら、
ふう、なぜかわかるだろう

暗雲が立ち込め、
霧が僕の魂を覆う
どうでもいい気分だ。
ロックンロールまで憎たらしい
死にたい、ああ、死にたい
まだ、死ねないとしたら、
ふう、なぜだかわかるだろう

(Lennon – McCartney)


 大学の正門をくぐって南北を貫く並木道を歩いていくと、丁度G棟の前に柏木がいて、ヤツは僕を見つけると、小走りで、こちらに近づいてくる。小走りの柏木の顔には笑顔が貼りついている。僕を見つける前に一人でG棟の前でタバコを吸っている時から、笑顔をたたえていた。見なくてもわかる。そして、その笑顔というのが、またいやらしくて、開いた口から剥き出る歯は真っ黄色で、歯ぐきも黒く淀んでいるし、それに右の頬が神経症みたいに時々痙攣して制御が効かないもんだから、そっち側にいつも涎が溜っていて、今にもこぼれるかこぼれないかのギリギリだから、見ている者をひやひやさせる。口を閉じていればまあヤバくもない顔をしているのだし、こんなに女子に嫌われずに済むんじゃないかとも思うが、でも、柏木はどうやったって笑顔をやめられないでいる。笑顔が一番感情を悟られないのだとどこかの本で読んだかどうか知らないが、とにかく、柏木にとって笑顔だけが彼のどうしようもない人生をうまく泳ぎきるための仮面であることは確かだ。

「シロちゃんだ、シロちゃんだ」と、僕のことをなぜか二度呼ぶ柏木は僕にタバコを差し出す。くれるらしい。

「今日はさ、しばらくこれで我慢してくれよ、な、な、な」柏木は、いかにも申し訳なさそうに「な」を繰り返し、僕がくわえた煙草に火までつけてくれようとするから、「火くらい自分でつけるよ」と断ると、ものすごくさびしそうな表情をして、しかも笑顔で、だから、思わず「ごめん」と謝ってしまった。

「いいって、いいって、タバコしかない、俺が悪いんだし。でも、今日、笹野が新茶用意してくれるって言ってたから、笹野待とう、な、笹野待とう」

いまいち二度言うところが癇に障るが、今日は、柏木にとって、重要なところを二度言う日なのだろう。誰だって、そういう日はある。と思う。

「でも、シロちゃんさ、クロなのシロなの、どっちなの?」

「それ、飽きた」と、僕が言うと、グヘグヘグヘと柏木はSFファンタジーゲームに出てくる雑魚キャラっぽく笑顔に笑いを足した。

「だって、面白いだろ。黒田四郎って、クロなのかよ、シロなのかよって、思うじゃん、普通、思うじゃん」

 はい、「思う」ところが、柏木にとって重要なのね、「じゃあ、クロだよ」

「へえ、今日は、クロか。おもしれえ」

まったく面白くない。でも、まあ、当たってるかもしれない。今日の僕の気分は、クロだ。まったく根拠がないけど。

新茶を持ってくるという笹野は、結局、授業が終わっても、そもそも授業なんか出てないわけだが、一応、その日の大学の授業の時間が終わっても、姿を現さなかった。

だから、僕と柏木は笹野の家へ向った。笹野の家は、大学を出て、下り坂を下って、上り坂を登って、下り坂をまた下った辺りにある僕が生まれる前の昭和の中期くらいに建てられた木造二階建てのアパートで、一階の一番隅っこに笹野は住んでいる。

柏木はノックもせずにドアノブをがちゃがちゃ回す。鍵はかかっているが、ちょっと力を加えれば開いてしまいそうで最高に建てつけが悪い。向こうから、「留守です」と声が聞こえてくる。柏木は「じゃあ、開けろよ」と返す。すると、鍵ががちゃりと開く音がして、笹野が顔を出した。それが二人の符丁らしかった。

「まあ、入れよ」と、笹野が言うと、柏木はまたひゅうひゅう喉から声にならない音を漏らしながら笑い、「どうして来ないんだよ、来ないんだよ」と言った。

ひとまず、部屋に入ると、笹野の部屋には一つ衣裳ケースが増えていた。全部で三つ。もちろん中におしゃれな服がたんまり入っているわけではなく、いわゆるお茶を栽培しているわけだ。

「俺、もう、やめたと思ってさ、大学にいろいろ持ち込むの。やめた」

「なんでだよ」

「ばれたら、やだろ」

すると、柏木が笹野をヘッドロックして、じゃれ始める。「このこのこの、どうして、お茶持ってるのがばれたら、困るんだよ」

僕は、少し待って、拍子抜けした。そこは、二度言わないのかよ、柏木。だから、柏木が笹野をヘッドロックして、倒して、馬乗りになり、わき腹をこちょこちょしている間に、そっと押入れを開けて、浪花屋製菓の柿の種の缶の蓋をそっと開けて中から、笹野が練ったばかりの新茶を取り出し、そこらへんに転がっているキセルに詰めて火をつけて、思いっきり煙を吸った。お茶のニオイが辺りに漂うと、新茶の香りに気づいたらしく、笹野のTシャツを脱がして、両方の乳首をぎゅうぎゅうつねっていた柏木が「あーーーーー」と、振り返り、乳首をつねられ喘いでいた笹野も、「シロちゃん、ずるい!」と、叫んだ。そして、二人とも僕からキセルを奪って、交互に新茶の煙を楽しみ始めた。

キセルをくわえて、おちょぼ口になる笹野の顔が眼前に見える。前々から思っていたが、笹野の鼻は見れば見る程、矢印に見える。高くないのにでかい鼻の頂点が下を向いて、鼻梁がそこからまっすぐ上に伸びている。矢印が示すのは、鼻の下にあるおちょぼ口だ。笹野の顔をもう一度上から見て行く。坊主に近い短い髪、めちゃくちゃ狭いおでこ、もう少し主張してもいいくらい申し訳程度にくっついている眉毛と目、そして矢印、おちょぼ口。死ぬほどおかしくなって、笑うと、柏木が、僕より大きな声で笑って、「あー、シロちゃんが笑ってる」と、僕を指さす。「矢印」と僕は笹野鼻を指さすと、柏木はじっと笹野の顔を見つめ、更に顔をくしゃくしゃにして笑う。「矢印、矢印、矢印」、三回唱えて、もうそれ以上、笑いで声にならない。笹野は、柏木を指さし「矢印て言うな!」と、口を大きく開け、怒鳴り始める。矢印が、今は、笹野の煙くさい口腔を指している。柏木が僕を指さし、僕は笹野を指さし、笹野は柏木を指さし、笹野の鼻の矢印がだらしない笹野の口を指していると考えると、失神するほど、おかしくなって、僕は、埃まみれの汚い床で転げ回った。

結局、気づいたら笹野の家で三人とも眠りこけていた。起きると夜中の二時だった。柏木は寝顔まで笑顔で、口を開けたままぶるぶるいびきをかいているもんだから、口の中が乾ききって、部屋中に異臭を振りまいている。タールとアルコールとタバコのダメなところのニオイをかき集めて、濃縮したようなニオイが僕の胃をつきあげ、吐いてしまいそうになるが、ぐっと吐き気を飲み込み、帰り支度をする。笹野は上半身裸パンツ一丁大股開きのまま寝ている。ゴムが伸びきったパンツの端から性器をだらしなくはみ出させていたから、毛布をその上からかけてやり、二人を起こさぬように、僕は衣裳ケースを覆うカバーのチャックを開けた。アルミホイルがびっちり張られた内側を蛍光灯が照らし、真ん中に置かれた鉢からひょろひょろに伸びた新茶が葉を茂らせている。なんとなく慈しむように葉を撫で、水をやってから僕は笹野の部屋を出た。

部屋を出ると、携帯が鳴った。「今日、笹野君の家、行ってたの?行ってたんだったら、声、かけてくれればいいのに」ヒデミからだった。文面の途中に、ぷんぷん的な絵文字がはさまれ、一応かわいいっぽく見せようとはしているけど、なんか相当怒ってるようにも見えるし、ただ怒って見せているだけのようにも見えるし、真意はよくわからず、とりあえず、「今から行くよ」と返事をした。するとすぐに「来なくていい」とヒデミは返してきて、その文には絵文字はなかった。

大学の正門をくぐって南北を貫く並木道を歩いていくと、丁度G棟の前に柏木がいて、僕を見つけると、小走りで、こちらに近づいてくる柏木はやっぱり笑顔だ。そして、口の中が汚い。笹野の家で酔っぱらって、自分のアパートに帰って、それから二日くらいごろごろして以来の大学で、初めて出会う知り合いが柏木なのは、かなり冴えない。

でも、柏木の方はそうでもないらしく、「シロちゃん、今日はどっち?」とまた面白くもないことを聞いてくる。

「お前、どっちなんだよ」と聞き返すと、珍しくまじめな顔になって、「シロかな」と答えた。

「へえ」

なにが「へえ」なのか自分でもわからなかったが、まあ、とにかく「へえ」なわけで、「どうしてシロなんだよ」と聞くと、柏木はいつもの顔に戻って、財布を後ろポケットから取り出し、僕に振って見せた。

「お、何人分、何日分」

「四人で、四日」

僕が柏木の肩を叩くと、柏木は得意げに胸を張った。

笹野はやっぱり来ていない。そう言えば、最近一カ月大学で笹野を見たためしがない。別にもう進級するつもりもないらしいから、それでいいのだろう。それに僕も柏木もさっぱり授業にでていないのだから、結局は同じことだ。やがて、チャイムが鳴って教室からぞろぞろ生徒たちが出てくる。その中に、ヒデミがいて、彼女は他の生徒の目を気にしてか、すぐには僕らの方へはやってこず、並木道の反対側のベンチに腰掛けて、携帯を開いた。

「行くなら、行くけど」と僕の携帯にヒデミからメッセージが入る。それを柏木に見せると、柏木は向こうのヒデミに笑顔で手を振った。

笹野の家までの下り坂と上り坂を、僕と柏木とヒデミはそれぞれ微妙な距離を保ちながら、歩いた。下り坂は柏木が先頭になり、上り坂はヒデミが先頭になった。僕はいつも、柏木とヒデミに挟まれ、できるだけ、一定の速度で歩いた。

笹野の部屋に四人揃うと、早速柏木は財布の中から四錠、錠剤を出した。三菱が刻印された白い玉を見て、柏木の今日の気持ちがなぜシロなのかわかった。

「僕も、シロだわ」と、柏木に伝えると、四人で柏木が処方してくれた薬を飲んだ。笹野の家の水道水は、やけにカルキの味がしたが、それは三菱のせいかもしれなかった。

ヒデミは、北海道出身で、雪みたいに肌が白くて、底抜けに透明感があって、目が細く、やぶにらみだが、鼻が高くて、なんか一昔前にはやったモデルみたいな顔をしてるが、一時間も話すと生粋の田舎臭さがすぐにばれるような垢ぬけなさで、本当は、田舎臭いということも含めて、ものすごく真面目ないい子なのに、田舎者のサガなのか、どこかアブないことに憧れている節があるイッコ学年が下の文学部女子大生だった。アブないことに憧れているというただ一点で僕とか柏木とか笹野とかと行動を共にするが、その憧れなんかなければ、絶対に僕らのことを人生から排除するような女の子で、僕はなんとなくそういう彼女のしゃらくささが好きで、たまに一緒に寝ようと誘うが、そこはなぜか断られる。僕とのセックスはアブないことじゃないのかよと口にはしないが、心でそう思って、毎回できるだけ危険風味で誘ってみたが、やっぱりさせてくれない。その割に、柏木が用意してくる薬とか、笹野が念入りに育てているお茶なんかは、おそるおそる、そしてタガが外れると嬉々として体内に摂取する。痺れて酔っぱらう彼女は、どんどん田舎臭さが薄れていく。僕は、さらに、無性にこの女の子と寝たいと、まあ自分も酔っぱらってるからなのだけど、熱望し始めるが、どうしてもヒデミはさせない。もちろん笹野にもさせないし、柏木なんかもってのほかで、おそらくヒデミは、笹野のことも、柏木のことも、お薬自動販売機くらいにしか思ってないんだろう。もちろん、真面目でいい子なのだから、「この、自動販売機が!」と明確に断罪しているわけではなくて、「本当は、この人たち苦手なタイプだけど、欲しいモノくれるから、よくしてあげないと。でも、寝るとかありえないし、ほんとは肌が触れるのもイヤ、絶対イヤ」とかすかに感じているくらいだろう。おい、それって、「自動販売機」認定より性質悪いぞ、と僕なんか思うんだけど、でも、それもただヒデミの心の中を僕が想像しているだけのことなんだから、僕の方が性質悪いってことになりはしないか。そんなことないか、っていうか、どうでもいいや。 ヒデミのことをそんなふうに考えているうちにどんどん酔いが回ってきて、気づいたらくすくす独り笑いしていたみたいで、それが柏木と笹野に伝染して、二人はやがて大声でバカ笑いしはじめた。なのに、ヒデミは一人、床を人さし指でくるくるこねながら、小学生の頃必死に覚えた北海道中の湖を順にささやいている。

「アカンコ、アッケシコ、アバシリコ、ウトナイコ、オコタンペコ、クッシャロコ、クッタラコ、クッチャロコ……」

クッシャロコ、クッタラコ、クッチャロコの三連コンボで、僕は溜らず、腹筋が崩壊した。笑い過ぎて、胃が飛び出るかと思った。

笹野が、適当に音楽をかけようとオーディオのスイッチを押した。とりあえずのれるブレイクビーツのつもりだったが、突然ビーズが流れ出して、僕たちは、あやうくオチそうになったが、自称音楽通の笹野もビーズとか聴くのかと暗黙のうちにみんな安堵し、なにが「ごめん」なのかわからないけど、「ごめんごめん」としきりに謝る笹野に、柏木も僕も、ヒデミまでが「いいよ、いいよ」となだめ、僕たちはビーズで酔い痴れた。

ヒデミの二の腕をじっと見つめた。二の腕の裏って、本人はなかなか見ない場所だなって気付いて、その場所がヒデミにとってあまりに無防備だと思うと、なおさら見つめてやりたくなって、やがて我慢できずに、真っ白な肌の肩に近い辺りに一つだけある小さいほくろを人さし指で触れてみた。お、意外に拒否らない。そのまま、肩を手のひらで覆い、反対の腕で腰に手を回し、ヒデミの後ろから抱きつく格好になったが、ヒデミは僕の腕を振りほどくどころか、その上から手を柔らかく握って来て、こりゃいけるかと思ったけど、その瞬間、ヒデミがこっちを向いて、「このままでいいからね」と、目を閉じたままで言った。なるほど、おっぱいも触っちゃいけないし、ましてや性的興奮を期待してもいけないし、とにかく、こうやって後ろからヒデミに抱きついているこのままでいいというわけだ。でも僕も悶々としちゃうと思いきや、けっこうこのままでよくなってきて、「このままでいいね」とヒデミに伝えると、圧倒的な幸福がやってきて、薄眼を開けてこっちを見ている柏木も笹野も、今この僕とヒデミが一心同体になっている形を眺めていることで、同じ幸福をわかち合っていると、完全に悟った。一心同体なのは僕とヒデミだけじゃない。笹野も柏木も含めて、四人が一心同体でいられた。

   × × ×

大学の正門をくぐって南北を貫く並木道を歩いていくと、丁度G棟の前に柏木がいて、僕を見つけると、困惑した表情で助けを求めるように笑顔を送ってきた。柏木の前には三人の学生がいて、手にペンと紙を持って、それを柏木の方へ差し出している。三人は誰もがまともな顔をしていて、もっと言えばなぜか正義感が強そうな顔をしていて、柏木に署名を迫っている。

「どうしたの?」と、僕は三人に声をかけた。

男が二人、女が一人、こちらを見ると、話しだそうとする女を男二人が制し、「どうしても、署名してくれないんです」と、切り出した。

柏木が、「シロちゃん、ごめん、ごめん」と、言った。

「どうして署名を集めてるの」と聞いた僕に男は熱弁を振るった。

憲法がないがしろにされている、このままでは、戦争になると憤ってみせた。

「この署名を直接政府に届けるんです。僕たち学生でもできることがあるでしょう」と正義の男が言った。

「でも、彼は署名を断ったんでしょう?」と、僕が言うと、柏木は「違うんだよ、シロちゃん、俺、断るとかじゃなくてさ、よくわかんないんだよ、どうして、ここに俺の名前書かなくちゃいけないか。なんか、書かなきゃ、俺、悪人みたいな感じでさ、でも、よくわかんないものに、俺、名前書けないよ、怖いよ」と、言った。

署名集めの三人は、怖いのは当然で、だから、この署名を政府に届けるのだと完全に斜め上なことを言ってのけた。

「ここに名前書かなきゃ、戦争になるの?」と柏木は本気で心配そうに質問した。

女がきっぱりと「そうです」と答えたのを見て、僕は、柏木の腕を引っ張って、その場から撤退した。

正門の方へ歩きながら、柏木が聞いた。

「シロちゃん、本当に、あいつらが言った通りなのかな。戦争になるのかな」

「かもね」と、答えた。べつに脅すつもりもないが、戦争になるかならないか、僕はまったくわからなかった。

「まじか、シロちゃん、じゃあさ、シロちゃんのさ、今日はさ、クロかな、シロかな」

「クロ、当分クロ」

怯えきった表情で、柏木が俯いた。

柏木の処方箋はまだ二回分くらいは残っているはずだった。

「もし、前借りできるなら、二人分、くれよ」と僕は言った。

別に四人でやらなきゃいけないというきまりはなかったが、少し後ろめたい気持ちになった。

「ヒデミとやんのか」

頷くと、怯えていた柏木が笑顔を取り戻して、トイレへ入っていった。二人で個室に入ると、柏木は、財布から二錠出し、それを僕にくれた。

柏木と昼を済ませ、僕は一人でG棟の入口へ向った。科学技術論の授業がもうすぐ終わる。ヒデミは、その授業にでているはずだ。まだ、署名三人組が並木道をうろうろしては、めぼしい学生に声をかけ、サインを集めて回っていた。たいがいの学生が、三人に声をかけられると、それまでゆるゆるだった顔を引き締めたり、悲愴ぶったりしては、署名用紙に名前を書き入れた。やがてチャイムがなって、教室から学生たちが押し出され、僕はその中にヒデミを探した。人混みがまばらになってようやくヒデミが教室からでてきた。僕を見つけると彼女は下を向いた。

僕とヒデミは並んで歩いた。けれど、彼女はひどくよそよそしく、他人がたまたま隣を歩いているように見えるように歩いた。

僕が財布をひらひらさせると、ヒデミはそっぽを向いて離れた。どうやら、もう酔っぱらう気はないようだった。僕は近づき、肩が触れ合う程近づき、「幸せだったじゃん、すごくさ、四人でさ、幸せをわかちあえたじゃん。すごいことだよ、同じ気持ちを共有できるなんて」

「ごめん、やめてくれる?」

立ち止まって、まっすぐ僕を見て、ヒデミは言った。

どうして、突然、酔う気がなくなったのか、それに、どうしてすこし憎しみさえ混じるような目つきで僕を見つめるのか、わからなかったが、まあ、確かに、お茶とか薬とか言いながら、麻薬で酔うなんて元々馬鹿らしいわけで、それに気づいただけか。だけど、今さら、そんなことに気づいたのかよ、それに気付いて、卒業なんて、自分はバカでしたって告白してるようなもんだぞ、バーカ、とは言わず、僕は黙ってヒデミから離れた。もともと馬鹿げてんだよ、知っててやってたんじゃねえのかよ、ちょっとアブないことに憧れて、必死に田舎臭さを脱臭しようとしてたヒデミちゃん、僕たちが調達してくるささやかなクスリのおこぼれをもらって気持ちよくなってたヒデミちゃん、二度と、僕たちの輪に入れてやんないからな。

「じゃあ、二度と、僕たちの輪に入らないでね」

僕は、そう伝えて、まだ柏木がいるかもしれない食堂の方へ歩いて行った。

食堂に柏木はいなかった。電話をかけても、柏木は出なかった。

なんとなく心配になり、それにいつまでも、錠剤を財布に入れておきたくないし、だから、僕は柏木の家へ向った。

柏木のアパートは笹野のアパートと反対の大学から西側にあって、そっちは坂が少なく、それがなんとなく柏木らしいと思った。その代わり、午後の太陽がまともに顔を照らして、異様に眩しくて、なんとなくいらいらしてきた。

呼び鈴を鳴らしても、返事はなかった。

「笹野の家に行ったのかよ」と、言葉にすると、柏木の部屋の中から、「行ってねえよ」と返事が返ってきた。

鍵の開く音がしたから、扉を開くと、そこに今にも泣きそうな顔をした柏木が立っていた。悪酔いしている時特有のなんとも言えない人を不安にさせる表情で、「どうしよう」と柏木はつぶやいた。ドアを閉め、中へ入った途端、柏木は僕にすがりついた。

「死にたくないよ、俺、死にたくないよ」そう言って柏木は泣き始めた。

「なに入れた、玉?粉?酒?草? なに混ぜたんだよ」聞いても、柏木は答えず、死にたくないと呟き続けた。

「俺、死にたくないんだよ、あいつら、言ってただろ、戦争になるって、戦争になったら、死ぬよ。死にたくないよ、俺、どうすればいいんだよ、俺」玄関先にうずくまり、床をどんどん叩きながら柏木は言った。

「バッドなときは深呼吸だろ」そう言っても、柏木には届かず、右の唇を痙攣させ、そこから涎を垂らしながら、「シロちゃん、怖いよ、俺、怖いよ、死にたくないよ、死にたくない」と、嗚咽を漏らした。やがて、突然顔を上げて、「そうだ」と、柏木は身支度を始めた。「まだ、間に合うかな、いや、間に合うよ、あいつら、大学にまだいるよ、シロちゃん、俺、署名してくるわ、今から、署名してくるわ、シロちゃん、俺、まだ間に合うかな」相手が酔っぱらいとわかりながら、僕は最高に苛立って、柏木の胸倉をつかんでそのまま部屋の中へと押し戻した。「離してくれよ、まだ間に合うよ、署名、署名、署名」と柏木がもがくので、僕はなんとかその口を閉じさせようと、顔をつかんでおもいっきり握った。「いてえ」と言おうとした柏木の口から「ひてえ」という言葉が漏れた。僕の手は柏木の涎に濡れてべたべたになった。「そんなに死にたいなら、死んでこいよ」僕は言った。「違うよ、わかってないよ、シロちゃん、逆だろ、死にたくないんだよ。戦争に殺されるんだよ、だから、死にたくないって言ってるんだよ」「一緒だろ」僕は柏木を殴った。でも、柏木はなにごともなかったように、泥人形のように立ち上がり、また玄関を目指した。

「署名すれば、まだ間に合うよ、まだ、死ななくて済むよ」僕は、また柏木を殴った、先より、強い力でめちゃくちゃに。少しは正気が回復した感じで床に血の混じった涎をこぼしながら今までに見た事のないような鋭い眼になって、下から柏木は僕を見た。

「お前が一番、卑怯なんだぞ。知ってるか、卑怯なのは、お前なんだぞ。いつもいつもいつもいつも傷つかない安全地帯にこもって、俺とか笹野とかヒデミとかたぶらかして、だから、お前が一番卑怯なんだぞ」

そういや、まだサイフの中に錠剤が入ったままだと僕は気付いて、取り出し、柏木の方へ放った。

「みんな死ぬなら、シロちゃんが一番先に死ねばいいと思うよ」

僕は笑った。笑いながら、柏木の部屋を出た。とりあえず、柏木が正気を取り戻してくれてよかった。

大学の正門をくぐって南北を貫く並木道を歩いていくと、G棟の前に柏木はいなかった。笹野も当然いなかったし、いるのは、相変わらず署名を集めている男女三人組だった。いや、四人組だった。女が一人増えていた。もう別にG棟に用もない僕は、そのまま通り過ぎようとしたが、目の端に、署名集めに加わった新人の女が見えて、しゃくだったがそっちを向いた。「ご協力ください」と、声を上げている男の横で、いかにもおぼこそうな男子学生から署名をもらっているのはヒデミだった。真面目くさって、いいことをやっている時特有の気持ちよさそうな笑みを浮かべ、署名をもらい終ると、明るい声でありがとうございましたとヒデミは声を上げた。僕は、その声と顔を知っていると思った。柏木と笹野と僕と笹野の部屋で酔っぱらっている時のとろんとしたヒデミの声と顔そっくりだった。

なんだ、と僕は思った。そして、並木道をまた歩き出す。僕は、道をそれ通用門の方へ歩いた。

もしかしたら、明日、ああやって正義の顔になって、署名を集めているのは僕かもしれないとわかると、とりあえず、それまで楽しんどいた方がいいと思い、通用門を抜け、僕は笹野の家へ向う下り坂を降りていった。


いながききよたか 2014.07.04

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