円居(まどい)レポ②「ぐるぐる迷宮回」
劇団コギトのnoteを見に来てくださり、ありがとうございます。今、タイトル部分に「円居(まどい)レポ②」と打って、ああ、もう2回目になってしまったか、という心境です。円居レポは全3回の予定なので、今回を山場(!)に、次で終了します。あ~、もう少し書いておきたかった!思えば普段の稽古なら、アトリエで、それぞれの役職の作業に打ち込みながらも、他の役職の人たちの様子を傍目に見ながら、あるいは彼らの声や立てる物音をぼんやり聞きながら、何らかの方法で、参加している人たちの存在を感じ取っていました。でも今回は、役者さんとスタッフさんの普段の稽古の様子を直接見に行けるわけでもなく、しがない広報担当が合法的(?)に、稽古を拝見できる唯一の方法が、円居に参加することなのです。そして「公演に携わっているなあ」と最も実感できるときが、円居(合同稽古のような場)で見聞きしたことを自分なりに発信しているとき、つまり円居レポートを書いている今この瞬間だったりするのです。そんな広報担当個人にとって(そして読みに来てくださったあなたにとっても、と信じたい!)貴重な円居レポート、今回は2月16日火曜日、第4回目にお邪魔します。迷いと挑戦の回です。
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今日の円居参加者
・ピンク班(音響と役者)
・イエロー班(衣装・小道具と役者)
・ブルー班(音響と役者) ※今回は役者のみ。
・オレンジ班(照明と役者) ※今回は役者のみ。
・グリーン班(舞台美術と役者) ※今回は舞台美術のみ。
・舞台監督
・映像&記録スタッフのお2人
に演出と広報担当を加えた計12名です。
1.暗躍者、はりきり、やれやれ
いつも通り、まずは映像&記録スタッフのお2人からの振り返りです。そのうちのコメントの一つが、「円居は話せる人が話す場という雰囲気をやめて、みんなが意見交換できる場に。」というもの。
さらに、前回の円居(2月14日)中に十分に話し合えなかった部分を、舞台美術の滝澤氏と役者の中氏が改めて提示します。滝澤氏の心配は「前回決まった『定点・顔は見せない』という撮影条件だと、完成した映像に大きな変化が出ず、お客さんは飽きてしまうのではないか」というもの。一方、中氏は「今回の公演独特のものである円居をもっと充実させたい」と話しています。そのためには、一部の人だけでなく、班を越えて誰もが話し合えるようにしたい。
映像・記録の方のコメントと、中氏のコメントが重なってきました。私も前回の円居レポでは「暗躍者になりたい!」などと口走っていましたが、あらかじめ顔出しもせず、発言も控えると決め込んでしまったら、「話す人と話さない人がいますよ」という不自然な誤解を与えてしまっていたかも…反省です。もうちょっと柔軟に動くことにしよう。。
そんなわけで、zoomのブレイクアウトルームに入ってからは広報担当も思い切って顔出しをして参加することに。先ほどの中氏・滝澤氏の発言を踏まえて、早速話し合いが始まります。どのような作品にするかを考えるにあたって、「どのような人をお客さんとして想定するのか?」「お客さんの範囲を決めないといけないのでは?」という問題提起も当然巻き起こります。「誰が見ても、何かが伝わり、心に響く作品にしたい」という意見もあれば、「今回は作る過程にも重きを置いているが、それに興味を持ってくれる人は(ある程度劇団コギトを知ってくれている人など)狭い範囲になりがち。でも今回はそれでもいいと思う」といった意見も。おっと、方向性を決める段階から既に見解の相違です。どうしたものかな、、、と考えていると、カメラをオンにしていたからか、私にも話が振られました!えーっと、そうですね、「脚本の基となったインタビューで語られている体験は、一部の団員だけに共通する体験で、そういう意味では、狭い範囲に向けられているみたいだけど。でも、焦点を当てられているのは、他の人たちも体験するような感情を語っている部分だと思う。だから内向きになることを目指しているわけではないんじゃないかな」。
言えたぜ……!!突然話を振られて大勢の前で(?)しゃべるという苦手な場面を乗り切ったぜ!(※実際はもっとしどろもどろです。)
実際に何人かが言っていた「関係者ではない方には伝わりづらいのでは」という懸念に関して(自分が今回の脚本に目を通した限りでは)、「そんなことはない。むしろ語り手の誰かや、その発言の一部に対して、お客さんはかなり強い共感を抱かせられるのではないだろうか。」という所感がありました。もちろん「誰か」や「台詞のどの部分か」は観る人によって変わるのだと思います。でも、「抱く」というよりは「抱かせられる」と形容したくなるくらい、今公演には強いパワーがあるなあ、と自分は思っています。
それと同時に(今回は広報というある種安全な立場から稽古に参加していますが)、もし自分が役者になっていたら、きっと、自分の中にとどめておきたいし、個人的には一人ひとりで醸成していくべきであろう思いを、語るように求められる、求められたら語ってしまう、というジレンマに苦しんだだろうな、という気がしています。いえ、やっぱり、このジレンマは実際自分の中にあると思います。私が語る必要はまるでないにも関わらず、語られる出来事の直接の関係者でもなく、なのにもし語るように求められたら……と想像すると、なぜか居心地の悪さのようなものを感じるときもあります。
友人を亡くすという出来事はどのように経験され、どのように語られるのか。ためらいも希望も連れて、今ここで表す。(劇団コギトtwitterより)
同じ出来事の経験、共有というそのテーマ自体には興味が湧く一方、もし自分の中にとどめて、どうなるか見守っておきたい気持ちを外に出すことを求められ、さらに表に出している様子を誰かに見られる(観察される、という意識があるのかもしれません)となると、きっと抵抗を感じるだろうな、と。こんなことを言いながら結局自分の思いを書いてしまっている。やれやれ………。
(ちなみに、かの小説家の作品に出てくる「やれやれ」の回数は、2020年4月時点で計71回なのだそうです。くわしくはこちら。)
「どんな人でもリラックスして楽しめるエンターテイメント」か「はたまたつくる人と同じ(あるいは近い)思いや価値観を持つ人にのみ伝わる芸術作品のようなものなのか」という比較を越えて、「私たち」が何らかの方法で関わらざるをえないものを、目指す…?というよりは、そうなっていくのだろうな、という気がします。
2.これは雄弁な沈黙である
とはいえ、脚本の中にある言葉のすべてが観て下さる方に直接伝えられるわけではなく、インタビューを受けた人の言葉の一部はあえて語ることなく「黙読のパート」になっていたり、インタビュアーの質問部分は省かれていたりもします。「インタビューを読んだ役者の感情のままに出てきた言葉をそのまま伝えたい」という演出さんの思い、そのためには字幕が邪魔になるという考えもわかるものの、「質問部分の字幕は載せないと、観ている人には分かりづらいのでは?」「(実際のインタビュー時のように)相手がいて出る言葉と、(役者が演じているように)独白として出る言葉は結構違う」という声も円居で起こりました。独白に関しては、演出さんも「100%の独白にはできない」と話しています。さらに、「画面の向こうに会話の相手がいるという設定で話してもいいのか」という質問に対しては、「それでは想像の域を出ない。自分の存在する場所に他者を置くことにはならない。」
む、難しい…!私も「独白とインタビューの間を埋めるためには『画面の向こうの他者に話しかける意識を持って演技すること』が一番の解決策なのかな」と思っていたのですが…。「役者と同じ場所にいる他者」となると、オンラインでやり取りをしているスタッフさんを仮の他者と考えるわけにもいかないわけで。しばしば耳にする「本当の他者は自分」なんて言葉も頭をよぎります。そう捉えるとどうなるんだろう。自分と自分の追いかけっこに終わっちゃうでしょうか。
インタビュアーの質問部分を字幕にするかはさておき、「黙読のパート」は個人的に気になるところです。もしや一番大事なのでは、という気すらします。何かに対しての自分の思いを真剣に語ろうとしたら、結構な時間をかけて整理というか、咀嚼が必要だと思うのです。授業なんかで当てられて、さあどう思っているかすぐに答えなさい、と迫られる(?)ことがあると、本当に自分の考えていることを話せているのか、分からなくなるときがあります(単に私の頭の回転が遅いだけ、とも言えるかもしれませんが)。でも授業中なので黙り込むわけにもいかず、何かは言うけれど、言ったあとは何だかぐったりするときもあるし、心にもないことを言ったかもしれない、という後味の悪さが残るし…。インタビューを受けた方々はそれぞれの方法で真剣に語られたのだろうと思うので、「黙読のパート」は彼らが自分の思いを見つけて、つかまえるための咀嚼の時間というふうにも考えられるのではないでしょうか。もちろん、実際は彼らのしゃべった部分のうち、セリフには選ばれなかった部分が「黙読のパート」という呼び方になっただけなのですが、語らないでいることもできるし、人によっては語りたくないかもしれない体験を、それでも語ると言うのなら。それを自分の中に刻む、というか残す時間としての沈黙が必要な気がする。
↑Eテレ「100分de名著」という番組の、ミヒャエル・エンデ『モモ』を取り上げた回で、モモは常に誰かの話の聞き手で、なかなか言葉を発しないけれど、豊かな内面世界を持っている、というような解説がされていたのですが、今回の「黙読のパート」ってそんな感じかも...??
まあ現実的なことを言ってしまうと、映像を通してその沈黙の持つ重さをどれぐらい伝えられるかというのは、これもまた難しい話なのかもしれませんが……。
おっと、気が付けば今日の円居の終了のお時間が近づいています。映像表現としての見せ方の問題は次回に持ち越されるようです。皆様、お疲れさまでした。
3.おしまいという名のおまけ(次回予告)
先ほど貼った『モモ』のリンクの、「名著 ゲストコラム」というコーナーで、ゲストの河合俊夫さんが、「どんどん先が読みたくなるエンタテインメント的なおもしろさもあれば、意味を知ることによってわかるおもしろさもある」と書かれていますが、今公演は後者に寄る気がしています。でも「おもしろさ」という言葉も合うのか分かりません。おもしろいか、おもしろくないか、というより、「それぞれのお客さんにとって、関わることや話すことが必要か、そうではないか」という点が、お客さんの感想に大きく影響するのではないかな、と思いました。
最後まで歯切れの悪い語り口になってしまいましたが、今回の話し合いが今後どう変化していくか、最後まで見届けていきたいと思います。
さて、次回の円居レポは、(冒頭でもお伝えした通り)最終回です。公開予定日は2/28(日)。本番前日になります。どうぞよろしくお願いいたします!