見出し画像

【公演ブログ⑦】さくちゃんと演劇と私

こんにちは。今公演で脚本・演出を務めます遠藤です。
卒業できるかどうかまだわかりません。ついさっきキャリア支援室から就活情報の配信メールが来ました。それ3年生に送るものではないのでしょうか。

(↑稽古中の遠藤↑)

【閲覧環境について】
noteの推奨環境は下記となります。推奨環境に該当しない環境では、各種機能が正常にご利用いただけない可能性があります。
また、下記環境範囲内であっても、ブラウザとOSの組合せにより一部表示に不具合が生じたり、各種機能をご利用いただけない場合があります。あらかじめご了承ください。詳細はこちら
【パソコンでの閲覧】
OS:Windows 10以降 Mac OS 10.12以降
【タブレット・スマートフォンでの閲覧】
推奨端末:iPhone 5s(iOS 11.0)以上, Android 5.0以上

何事においても広く浅く生きてきたので、好きなものは数多くある一方で、それについて語るとなるとどうにも困ってしまいます。一つのものにどっぷりハマっている人に強烈に憧れます。今公演のブログを見る限り、私の同期にはそういう方が多かったみたいです。

いろいろ思案しましたが、今回は浅学ながら萩原朔太郎について筆を執ることにしました。
萩原朔太郎は戦前の詩人です。日本で初めて?口語自由詩を確立した方らしいです。国語の教科書にその作品が数多く掲載されている、かの有名な谷川俊太郎さんも「萩原朔太郎以後の詩人は全員萩原朔太郎の模倣をしているにすぎない」といった趣旨のことをおっしゃっていたとかいないとか。まちがっていたらすみません。とにかく萩原朔太郎はすごい人らしいです。

私は萩原朔太郎が大好きです。iPhoneの名前を「朔太郎」にしています。人に話すときは「萩原朔太郎」とフルネームで呼称しますが、心の中では「さくちゃん」と呼んでいます。


萩原朔太郎です。イケメンです。

萩原朔太郎との出会いは高校の国語の教科書でした。彼の『時計』という詩を読んだ瞬間、彼の作った作品世界に五感を支配されました。詩は世界なんだと思いました。そう、詩は世界なんです。
僕は当時短歌にハマっていて、限りなく少ない文字数で「瞬間」を切り取る秀でた歌たちに酔いしれていました。しかし、短歌の作り出す「瞬間」は時間の感覚のない、あるとしてもほんの少しの奥行きだけで、一刹那の印象、極めて二次元的で薄味だと感じられました。もちろん短歌は短歌で、その限界の中でどこまで強烈な印象を生み出すか、日常のふとした文学性を発見するかという所にうまみがあるので、それは素敵だと思っていますが。
詩は違いました。詩は文字の制約が少ない分、より奥行きのある作品が生まれます。そこには時間が流れ、視界が開け、聞こえ、匂いがし、手で触れ、味わえる「世界」があります。細部があります。変化があります。たった二十行の文で、こんなにも濃密な世界を作ることができる萩原朔太郎に心を奪われました。

萩原朔太郎の『時計』を引用します。

   古いさびしい空家の中で
   椅子が茫然として居るではないか。
   その上に腰をかけて
   編物をしてゐる娘もなく
   煖爐に坐る黒猫の姿も見えない
   白いがらんどうの家の中で
   私は物悲しい夢を見ながら
   古風な柱時計のほどけて行く
   錆びたぜんまいの響を聴いた。
   じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!
   
古いさびしい空家の中で
   昔の戀人の寫眞を見てゐた。
   どこにも思ひ出す記憶がなく
   洋燈の黄色い光の影で
   かなしい情熱だけが漂つてゐた。
   私は椅子の上にまどろみながら
   遠い人気のない廊下の向うを
   幽靈のやうにほごれてくる
   柱時計の錆びついた響を聴いた。
   じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!
萩原朔太郎「定本青猫」より


私はこの詩から、古い家具のすえた臭いが感じられます。記された文字の見た目から、真冬の荒れ地のような厳しい寂寥を感じます。読んだときのリズムから、どろんとした倦怠を感じます。椅子や、柱時計や、娘や黒猫の不在が手に取るように想像されます。それらは私の感情を喚起し、私の心を慰めます。

私は一人になるとたまに萩原朔太郎の詩を読みます。一人で寂しさを味わいたいときに読みます。一人であることにどっぷりと浸かって、ひとしきり満足すると、誰か人に会いたくなります。萩原朔太郎の詩は、私の原動力です。

もうひとつ、私の好きな萩原朔太郎の詩を紹介します。

   薄暮の部屋

   つかれた心臓は夜をよく眠る
   私はよく眠る
   ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ
   なにものか
そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒
   寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
   ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

   私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
   私はさびしむ この力のない生命の韻動を。

   戀びとよ
   お前はそこに坐つてゐる私の寢臺のまくらべに
   戀びとよ お前はそこに坐ってゐる。
   お前のほつそりとした頸すぢ
   お前のながくのばした髪の毛
   ねえ やさしい戀びとよ
   私のみじめな運命をさすつておくれ
   私はかなしむ
   私は眺める
   そこに苦しげなるひとつの感情
   病みてひろがる風景の憂鬱を
   ああ さめざめたる部屋の隅から
つかれて床をさまよふ蠅の幽靈
   ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
   
戀びとよ
   私の部屋のまくらべに坐るをとめよ
   お前はそこになにを見るのか
   わたしについてなにを見るのか
   この私のやつれたからだ
思想の過去に残した影を見てゐるのか
   
戀びとよ
   すえた菊のにほひを嗅ぐやうに
   私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を
その青ざめた信仰を
   よし二人からだをひとつにし
   このあたたかみあるものの上にしも
お前の白い手をあてて 手をあてて。
  
戀びとよ
   この閑寂な室内の光線はうす紅く
   そこにもまた力のない蠅のうたごゑ
   ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
   
戀びとよ
   わたしのいぢらしい心臓は
お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ
   
戀びとよ
   戀びとよ。
萩原朔太郎「青猫」より

思えば、詩と演劇は似ています。
詩は言葉をもってして言葉以上のもの、世界を構築する。演劇は舞台、音響照明、衣装や小道具、そして役者の身体と声をもってしてその空間に許された容積以上のもの、世界を構築する。そして、それが実現するのは何より受け手、読者や観客の想像力があってこそです。

ただし、詩と演劇は大きく違います。
詩は作者一人の手により書かれますが、演劇はたいていの場合、一人では何もできません。今公演の作品は、私が脚本を書くところから始まりました。そのときは、まだ私一人の何ともさびしくつまらない世界でした。そこに役者の声と身体が入り、舞台が入り、作品に関わるあらゆる要素が、僕以外の脳と身体を通してやって来ました。次第に、僕だけしかいなかった世界に色が付き、他人の声が聞こえ始め、生き生きとした賑やかで楽しい世界になっていきました。

稽古で通しを何度も見ていますが、見るたびに今公演に関わったみんなが思い浮かびます。既にこの作品は、とっくに私の手を離れて、遠くまで来ていたようです。もちろん創作の過程は辛く苦しいことも多々ありますが、みんなの仕事が化学反応を起こして一つの作品に収斂する瞬間、至上の快感を覚えます。これだから演劇はやめられない。

でも、これで終わりです。私の同期は全員この空間で演劇を作ることをやめます。もう終わってしまいます。やっと終わります。さっさと終わりたいです。まだ終わりたくないです。このメンバーとも最後です。エゴが強くて嫌な奴ばっかりでした。優しくて良い奴ばっかりでした。みんなとまだ一緒にいたいです。

手を離せばすぐなくなってしまうのに、いつまでも離れてくれない4年間の大学生活でした。この4年間そのものが愛でした。このサークルで過ごした時間が愛でした。演劇にまつわる営みすべてが愛でした。

なんだか前半と後半で温度差の凄まじい文章を書いてしまいました。最後に萩原朔太郎「月に吠える」の序文を引用してバランスをとることにします。

    人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
    原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
    とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
    我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。
萩原朔太郎「月に吠える」より

今公演が、誰かと誰かの間を埋める「愛」を見つめるきっかけになれたら幸いです。