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「四季・コギト・詩集ホームぺージ」のこと

 このnoteブログの本宅である「四季・コギト・詩集ホームぺージ( https://shiki-cogito.net/ )」は、大正~昭和初期にかけて青春を送った抒情詩人たちについて、その姿を、彼等が残した「詩集」といふ形見によって振り返りながら、つたない感想を公開してゐる個人ホームページです。1999年に開設し、途中より江戸時代に活動した郷土岐阜県の漢詩人たちの紹介もするやうになりました。

 わたしたちの国語が今後情報化の中でどの様な変貌を遂げて行くのか分かりませんが、戦後も半世紀以上を経て、自然に消滅したとか忘却したとかでなく、入念に時間をかけて「壊され」「捨てられ」てしまったと感じる、なつかしい言葉や表現と、その背景との信頼関係について、わたしは現代に詩を書く者の立場から、文学の領域でそれを推し進めてきた詩人の変貌、断絶の問題として、このかた考へてきたやうに思ひます。

 日本の現代詩史上には、明治末年に発祥した口語詩が、僅々二十年ばかりの間に白熱して輝いた、まさに「抒情詩の黄金時代」と呼ぶべき一時代がありました。 「大東亜戦争の時代」を結末に据ゑたその後の運命について、詩人の発想に内在する精神的な限界を論(あげつら)ひ、これを社会学的に総括しようとする試みが、これまでに多くの現代詩詩人や「文学」学者たちによって行はれてきました。

 わたしは、当時の詩人たちの限界を時代の高みから観下ろしてあざ嗤ふのではなく、歴史文化の表情として把握・理解し、これら先人の遺産をわたしたちの古典の末尾に正しく位置付けて再出発したいと考へてゐます。国の生成に直結する倫理と世界史的な反省と、両つながらの観点から、引き続き古典に対する思ひをあらたにしてゆくことが、詩人に限らず物質文明の只中に生まれたわたしたち世代以後の日本人が、折に触れて立ち返らなくてはならない場所であり、また責務ではないかと思ってゐるからです。

 昭和の戦後時代を生きた人たちは、高度経済成長期に過去の風俗や風景との訣別を経験してきました。平成バブル崩壊を経て、今はまた日本の国柄やアイデンティティさへグローバリズムによって揺さぶられてゐるといってよいでしょう。如上の思ひから、人生の後半期を迎へたわたしは卑見を披露しながら、謂はば私淑した詩人たちとともに伝統の末尾に殉ずることができる喜びに浸らうとしてゐるのではないか、と感じることさへあります。

 文学は虚学でなく実学だと思ひます。古典は謂はば漢方薬に等しい。 西洋医学で手の負へない病に対して経験値に保証された漢方が求められてゐるやうに、かうした時代に世の中に求められてゐるのは、伝統が保証する古典と、古来の語意識の中から新しく活きて人々に処方される、生薬のやうな穏やかな効き目のある抒情詩ではないでせうか。
 私が愛してきた詩文学とはそのやうなものであったし、これまで自分を支へてくれたのは、それを体現してくれた昭和戦前期の詩誌「四季」「コギト」等に拠った抒情詩人、そして江戸時代後期の漢詩人が遺していった世界観でした。
 「西洋医学の科学的な正当性(戦後民主主義)」に立脚した現代の詩人たちを否定するものではありません。今は糜爛した文明、弱肉強食を顕はにする社会風潮に対して、その是正と恢復とが需められてゐる時代であると感じてゐます。

 新刊書店の「現代詩」のコーナーでは目にする機会のすくない、戦前抒情詩と江戸漢詩の世界に触れていただければ幸ひです。多くの方々の理解と協力と黙認とを以て成り立っている「四季・コギト・詩集ホームぺージ」上で公開されてゐる電子資料については、関係する著作権を利己的に主張するつもりはありません。


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