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家族はまだら模様でできている

 ぼくの妻は、毎日お弁当を作ってくれる。特別手の込んだものではないけれど、それでも毎朝ぼくより少し早く起きて作ってくれるのはとてもうれしいし、ありがたい。

 でも、難点なのが、ご飯を弁当箱にぎゅうぎゅうに詰めるので、昼に食べようと思っても、詰まりすぎててご飯にお箸をさせないくらいカチカチになっているのだ。彼女としては、小さい弁当箱だから、少しでもご飯の量を多くしてやりたい、という想いからなのかもしれないが、毎回プラスティック製のお箸が折れそうにまでなってしまうので、一度そのことを彼女に言うと、彼女は面白そうに笑ったから、てっきり改善してくれるのかと思いきや、その後も相変わらず弁当箱にはご飯がパンパンに詰められたままなのだ。

 もしかしたらわざとなのか、それともぼくが言ったことを冗談ととっただけなのか。
 今のところその真相は、不明なのだけれど、もしかしたらそんなところもぼくと彼女との認識の違いにあるのかもしれないな、と思うのだ。

 そういえば、彼女と結婚して、家族となった今でも、彼女とぼくとではなかなか近づかない違いというものがある。

 例えば彼女の使う言葉だけれど、彼女はマッサージ機のことを”肩こりと言ったり、歯を磨くことを”歯を洗う”と言ったり、目薬は”入れる”と言うし、お風呂の換気扇は”乾燥”という。

 ぼくとしては違和感ありまくりで、何度か言い直したりもしたけれど彼女はなんのポリシーがあるのか、それとも通じてるからいいやん、というのかわからないが、相変わらず使い続けている。
 子どもにもその言葉遣いをするので、大丈夫かな、と思うのだけれど、もうほとんど諦めてしまっている。(ぼくがこまかすぎるんだろうか・・・)

 そして、ご飯を食べ終わった時に、子どもが「ごちそうさま」というと、毎回ぼくがすかさず「よろしゅうおあがり」というのには妻は「何それ」となんとなく不満顔をする。

 ま、「よろしゅうおあがり」は一般的ではないかもしれないが、ぼくの母はいつも「ごちそうさま」というと「よろしゅうおあがり」と言っていて、ぼくもその意味がよく分からないままに、そういうものだと刷り込まれているのだろう。

 育ってきた環境が違うから、感覚や言葉遣い、気にするところも違うのは当たり前だ。

 で、ある時なんかの拍子に、「夫婦って言ってもしょせんは他人同士やからね」とぼくが一般論として何気なく妻に言ったことがあったのだが、そのとき彼女はとても悲しい顔をしたので、ぼくはそれ以来その言葉は使わなくなったのだが、彼女はふたり違うところを持ちながらでも、それぞれを認め合いながら一緒にやっていく、という想いをどこかに抱いていたのかもしれない。

 子どもは子どもで、真っ白で生まれてきて、両親の、特に母親の色に近い色で育っていき、やがて学校に行きだして、多くの人と接するうちに、両親とも違う色を持ち始めるのだろう。

 みんな、違う色を持っている。

 みんなちがって、みんないい

 金子みすゞさんが言ってたね。

 家族も、みんな同じようだけど、同じじゃない。

 まだら模様でできている。それでいい。

 違うから、腹が立つこともあるし、けんかをすることもあるけれど、違うからこそ面白いのだし、新しい気づきにもなれるところだ。

 違うからこそ理解しようとしたり、歩み寄ったりできるのだ。

 うちだったら3人家族の3つの色がある。そして3つの色が重なるところ、そこは色がぼやけてまじりあっている。

 家族ってそんなものかもしれない。

読んでいただいて、とてもうれしいです!