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22歳でママになった大学生が、23歳で家出をし、24歳でシンママになり、25歳になった今、何を追いかけるのか

はじめに

はじめましての方ははじめまして。北東由衣です。
あんまりnoteでフルネームを書くことはないのでちょっと新鮮です。

今日は誕生日です。25歳になりました。もう20代も後半戦です。節目の歳を迎えた今が人生の中ですごく重要な意味を持っていると感じる今日この頃です。

最近すごく人生が充実しています。仕事が、勉強が、プライベートが、恋愛が、家庭が、といろいろ充実するものはありますが、そういうのではなく、もう人生そのものが充実している感覚があります。

この半年は娘が小学校にあがる3年後をずっと見据えて生きていますが、楽しみで仕方がなくなってきました。どうしても辿りたい運命なら、辿れた方が幸せだと思えるなら、ちょっとでもその確率が上がり続けることをし続けたらいい。ひとつひとつは1%もない上昇でも、それを100個1000個と積み重ねていく間に100%に近づいていく。叶わないと思っていたことでも叶う瞬間がある。

たらればで後悔していたものが、そのおかげで今があると思えるものに変わりました。人間ってすごく単純なんだなと思っています。ただ、後悔じゃなくて充実感に変わるだけで世界の見え方が大きく変わる、目の前に広がる人生という道の先に光があたる。

これまでのゆいの人生は、その瞬間その瞬間の充実感はあるものの、「充実してる!」と胸を張って言えるものではありませんでした。むしろ、暗闇の中で苦しかった期間が長かった。死に方を考えたり、逃げ方を考えたり。でも、その期間を乗り越えて、今という時間が存在する。

だからこそゆいは、前を見て生き続ける。

同じような苦しみを抱える人をひとりでも救うために、同じように苦しむ人をひとりでも減らすために。そのために前を向く。


このブログを読む人の中には、高校時代の友達もいるかもしれません。実は、ゆいの目指す社会やゆいの抱える葛藤をあまり話したことがありません。無意識的にも意識的にも隠してきました。誰がこのnoteを開くのかわかりませんが、隠すのはやめようと思いました。これがゆいの人生です。

ゆいのこの数年は激動でした。この文章を読んで、何か感じる部分があった人とは一度お話したいです。
ちなみに、めちゃくちゃ長いです。四半世紀を振り返っているから当たり前といえば当たり前ですが。後半の比重がすごく多いのは、この数年の激動さを表現していると思っています。


顔色を見て生きることを覚えた小学生

3歳下の弟がいる4人家族の長女で生まれたゆいは、小学校3年生の時に転校を経験します。

もともといた小学校には、「親友」と呼ぶ友達がいました。引っ越しの話が進むにつれて実感に変わった、「もう会えない」という事実。内見の最中に突然号泣したことを覚えています。みんながいなくて、これからどう生きていけばいいのか。急な環境の変化にどう対応すればいいのか、漠然とした不安に襲われた瞬間でした。

転入してきた初日。
「転校生」という珍しさに、始業式が終わってすぐ同級生に囲まれました。勢いに圧倒されました。自分の前に無数に顔がある光景を今でも覚えています。

小学4年生の時に学級崩壊を経験しました。崩壊というと大げさかもしれませんが、当時のゆいからしたらその衝撃がありました。担任の先生が学校に来れなくなったことをきっかけに、ちょっとずつ授業がままならなくなる。先生によっての対応が顕著に変わる。

あぁ、この場で嫌われたらゆいは学校に来れなくなる。

この時に漠然と感じたような気がします。目立つことが好きで、前に出るようなことが好きで。学級委員や児童会、クラス演劇も主要キャラをしていました。手を上げて発表するのも好きでした。でもどこか嫌われないように、と思い続けて、次第に自分という存在がどこにあるのかを見失っていました。

限界が来たのが小学校6年生の夏休み明け。翌日を始業式に控えた夜に、「学校に行きたくない」と母親に泣きながら告白しました。毎日誰かの顔色を見て生きるのがほんとにしんどかった。その時に決めたんですよ、中学受験しようって。受かるかどうかなんてわからないけど、環境を変える選択肢があるなら選びたかった。

「優秀」というラベルに悩まされた中高生

中学受験は合格しました。県立の中高一貫校に進学して、また新たに友達をつくろうと思っていました。でも、環境を変えてもゆい自身は変われなくて。今思えば当たり前ですが、何もしなくて自分を出せるようになるなら簡単なことだけど、そんなわけなくて。むしろ顔色だけでなく「優秀」というラベルも気にするようになってしまいました。

きっかけは中学に入ってすぐのテスト。人生で初めて勉強での挫折を経験しました。小学校と中学校のテストの変化に全然対応できなくて、母親と先生の面談で補習を進められる状態。

自分には勉強しかないのに。

父親と母親から期待されているのは勉強だけだと思っていました。理由は、小学校のときに続けていたバレーボール。記憶の中では、父は一度も応援に来たことはありませんでした。毎週のようにゴルフに行っていたイメージ。でも、弟が野球をはじめたらゴルフを辞めて野球についていくようになりました。未経験だけど最終的にはコーチにまでなっていました。

ゆいが褒められるのはいつも点数のいいテスト。弟には勉強も野球も厳しいことをいうけど、ゆいにはそんな記憶がなくて。ただ、怒らせると怖い存在。

中学受験を合格したこともありその感覚は強くなっていって、勉強のできないゆいに何の価値があるのか、と悩んでいました。これも親には話したことがない情報です、読んでいるかわからないけど隠していてごめんなさい。

でも、どれだけ頑張っても英語の成績だけは全然上がらなくて。実際、高校2年生くらいまでは本気で苦手教科でした。赤点ギリギリの点数を取ったこともあります。努力をするのが怖くなりました。努力を見せるのが怖くなりました。努力をして結果が出ないのが嫌で、努力をしていない人を演じるようになりました。

母親のママ友に言われる「お姉ちゃんは優秀だね」という言葉がすごく重かったです。だって、自分を優秀だと思えなかったから。ただ、県内で有名な進学校に所属しているだけだから。でも、その人たちの期待も裏切りたくなくて、両親の期待も裏切れなくて。一番優秀でありたかったのはゆい自身ででした。

部活で週6バレーボールをしながら、高校2年生の夏から受験勉強をしていました。毎日少しでもいいから高校生の範囲の復習をする。やっぱり苦手な英語は重たかったけど、その期間があったからある程度戦える教科になったんだと思います。

ただ、人生の夏休みを楽しんでいた大学生活

コツコツと努力をした結果、第一志望にしていた大学に合格できました。学科は53人と少数で、みんなほんとに仲が良くて。仲良く授業を受け、ご飯に行って、遊んですごしていました。サークルもバレーボールを続けることを選びました。大好きな先輩と後輩と同期がいっぱいです。

いわゆる大学生活を満喫していました。「ただの女子大生」とよく形容されますが、ほんとにその通りだと思います。

このまま生きていたら、普通に教員になっていたと思います。それかまぁ企業就職していたか。何も疑わずに、目の前にあるその道を淡々と進んでいたんだと思います。

でもなんとなく、ほんとにこのままでいいのだろうか、という感覚を持っていました。もっとこの4年間の中で吸収できるものがあるんじゃないのか、この時間を活用できるんじゃないのか。

そんなときにゆいの人生を変えてくれる出会いがありました。

自分で生きるという道を知った19歳

今から約5年半前の出来事です。学部の必修で海外に行かなきゃいけないのですが、1期生ということもありプランが少なくて。そんな時に友達に何げなく発した一言。

「せっかく海外に行くなら、北欧とか教育が進んでいるところに行きたいなぁ」

この一言がなければ、そして、この一言を伝えた相手がこの子じゃなかったら今の人生はありません。人生ってほんとに不思議なものです。一つの歯車がかみ合わなかっただけで、全然違う人生に変わってしまう。

NPO法人が主催しているデンマークツアーを紹介してもらい、別で教育系のイベントに一緒に行こうと声をかけてくれました。

何かわからないまま参加したイベント。みんな教育について考えを持っていて、自分には何もないなぁと情けなくなったのを覚えています。そのあと懇親会があったのですが、行かないでおこうかと悩んだくらい。「行くって言っちゃったしね」と参加してよかったなと思っています。

一緒に参加した友達と端の方で話していたときに誘ってくれた子が来て。

ゆいさ、顧問の先生と話してみてほしいからついてきて~

なんでゆい?と思いながら、言われるがままについていくことにしました。結果として顧問の先生とずっと話していたのは友達の方で、ゆいはその席にいた主催団体の代表の人と話すことになりました。この人が、ゆいがずっと追いかけ続けている今のビジネスパートナーです。今振り返ってみて気づきましたが、彼と話したのは奇跡でしかない。

横でお酒を飲んで酔っ払いながら、目指す社会について目をキラキラさせながら話す姿に、かっこいい、と思って。そして、その人が目指す社会がすごく輝いて見えて。

「この人の横でこの人が見たいと思う景色を一緒に見たい」

自分で何かをつくるという生き方にはじめて出会いました。雇用されることしか考えていなかったゆいからしたら、とても衝撃でした。とにかく横に並びたいと思っていました。

ゆいの心からやりたいと思えることに出会えた20歳

20歳の夏は、デンマークとフィンランドにいました。別に長期留学をしていたわけではなく、1週間ずつの計2週間ですが。ゆいなりに海外の教育について知りたくて、自分自身がやりたいと思えるものに出会いたくて。

当時目指していたのは、注文住宅の営業設計でした。家族に対しての想いが詰まっている、一番大きな買い物が家だと思っていて。それぞれの誰かに対する想いが少しずつかたちになっているような、そんな家を設計できるひとになれたら、と思っていました。

だから、誰かの想いに向き合うという経験がしたくて二か国に渡航をし、いろんな大学生と向き合い続けていました。将来的に日本で何がしたいのか、そのために海外で何を見てきて、どう日本に取り入れていくのか。今のゆいの中にあるものをかたち作ってくれたのは、この期間だと思っています。

誰かの目の彩が変わる瞬間に、魅せられました。こんなに幸せなことがあるのかって、この喜びのためならいくらでも時間を使えるって、そんな風に思えるものがあるんだと驚きました。

じゃあそのやりたいことをどうやって叶えていくのか。

大学3回生も後半に差し掛かり、進路選択はもう目前。ゆいの目の前には、教員、企業就職、事業立ち上げ、海外、といろんな選択肢がありました。一気にいろんなものに出会い、経験し感じた魅力。

でも、当時のゆいには自分の進路を決められるほどの要素はありませんでした。1年後には将来の進路が決まっている、という状況に不安を感じずにはいられず、今は決められない、と休学することを決めました。

休学して自分の人生を探していた21歳

休学をしたタイミングはコロナのときでした。いろんなところに行って経験を積みたい、と思っていたのに、思ったようにはいかない毎日。一保育士として保育現場を見てみたくて、保育士をしながら自分のやりたいことをかたちにする方法を考え続ける毎日でした。

この時に思っていたのは、自分は正職員として保育園で勤務したくないな、ということ。担任の先生たちがほんとに大変そうで。それも、子どもたちのことじゃなくて、資料作成とか指導案を考えたりするのが大変そう。

自分が保育士になってしたかったことってなんだっけ、と思った時に、ゆいがしたいことは保育の現場の正職員という立ち位置ではできないのかもしれないなと思いました。

もっと、子どもたちの好奇心を伸ばせるようなことがしたいし、ひとりひとりの発言に耳を傾けたい。そして、子どもたちにとってそういう時間が増えるようなことに関わりたい。

ゆいがしたいのは現場じゃなくて、子育て支援とか保護者教育なのかなと考えている頃でした。ひとりひとりをゆっくり見れて、一番過ごす時間の長い家庭という環境の中で、子どもたちが大切にされていると思いながら生きてほしい。親のために生きる人生じゃなく、自分のために生きられる子どもたちを増やしたい。

そんなことを思っているときに妊娠がわかりました。不安と困惑と驚きと、いろんな感情でいっぱいで。それでも、ポジティブにとらえてくれる元旦那の存在もあり、ゆい自身も自分を選んでくれたこの子を大事にしたい、と思うようになっていきました。

この時、頑張れ、と応援してくれたたくさんの人たちに救われて今があります。周りに誰も共感してくれる人がいない中で向かえる出産はすごく不安で仕方がなかったです。でも、自分がママになるからできることがある気がして、ママになるから救える人がいる気もして。そんな未来を信じて、そしてこの子を大事にしたいという想いとともに出産を決めました。

学生ママになって動き続けた22歳

出産したのが3月でちょうど同級生が卒業するタイミングでした。みんなが社会という新しいステージに行ったと同時に、ゆいも「育児」という別のステージに突入しました。

目の前の育児に追われながら、でも社会ともつながり続けたい、と思っていたこの頃。元旦那の人生が進んでいく感覚にすごく不安とさみしさを覚えていました。

でも、ひとりで何かをする時間もなければ、自分のやりたいこと主軸で動くのは苦手で。そんな時に頼ったのがビジネスパートナーの存在でした。

ゆいがしたいことは何なのか、どんな人に関わりたいのか、ビジネスパートナーとどういう関係性で仕事をして生きたいのか。そんなことを書いて居たらめっちゃ長文になってしまった記憶があります。

そんなときに始めたのが、約2年続けた「ゆるみら」というプロジェクトでした。セミナーとかじゃなく、対話や自然の中でというゆるい環境の中で自分のやりたいことを探していく。

みなさんの目にどう映るかは計りしれませんが、生後4ヶ月の娘を連れて合宿してました。月1回の合宿に向けて週1回のミーティングでコンテンツをつくって、集客をして。約半年間で計5回の合宿と1回のイベント。

育児をしながらでも、リモートでも、スマホだけでも仕事ができないのか、を考え続けてくれるビジネスパートナーの存在に救われ続けていました。ゆいちゃんはできるから、とずっと背中を押してくれていて。

そんな中で出会った女の子がいます。初回の合宿に参加してくれた女の子で、自分の想いを一生懸命言葉にしてくれました。

「プリキュアになりたい」

少し今の話になりますが、彼女なりのプリキュアを紐解き、アイドルを目指して活動しています。この前ステージを見に行ってきました。泣きそうでした。この子みたいな女の子を増やしたい。ゆいが改めて女の子に想いが向くきっかけをもらったのは彼女の存在です。

自分のありたい姿のために離婚を決意した23歳

ゆるみらのメンバーは娘のことを親戚のようにかわいがってくれていて。ゆいが育児をしたいと望む環境はこういう場所だなと思っていました。いろんな価値観の中で、いろんな人生の中で娘が成長していく。それが体現できる場所でした。ゆい自身も、ゆいらしくいられる場所でした。

でも、家に帰るとそうはいかないのがゆいの前に立ちはだかる現実でした。仕事と家庭のバランスで喧嘩になり、余計に家にいるのが苦痛になって仕事をするようになるとまた喧嘩になる。

なぜ、自分がやりたいことを追いかけたらいけないのか。「稼いでない」というだけで家の中での人権がなくなるのか。ゆいの描く理想の夫婦像とどんどんかけ離れていく、このままだとゆいは、家族のために我慢をする専業主婦になることを求められる。

いつの間にか、元旦那の前でパソコンを開けなくなっていました。家事の邪魔にならないように朝早くにコンテンツを開催したり、外出している時間にパソコンを開くようになったり。家にいるのが息苦しくて仕方がなかった。

ゆいちゃんは子どもが好きって言ってたし、専業主婦になるタイプだと思ってた。

元旦那から言われた衝撃的な一言でした。そしてその時気づいたんです。わかってくれてると思っていただけだったって。そして、その前提が崩れないのなら一緒にはいられないって。

だって、ゆいがなりたかったのは、自分らしく毎日を生きているママの姿だったから。ひとりの人間として人生を楽しんでいる背中を見せたいと思っていたから。でも、元旦那といたらゆいはずっと自分を責め続けてしまうから。離婚をすると決めて、自分なりに行動を開始したころに、私の精神は限界に来ました。

急に涙が止まらなくなって、何を考えても涙がどんどんあふれてくる。暗闇の中飛んできた罵声が脳裏にこびりついて、何度も自分の脳内で反響する。考えたくない、と思うほど、自分を責める言葉が聞こえてくる。

周りのひとに手を引かれて、娘を連れて元旦那のもとを離れました。はじめは親にも黙っていました。何をしても何を考えても手が震えて足がすくむ。今だから言えますが、入水自殺を考えた瞬間があります。元旦那と離れるために飛び降りを考えたこともあります。今から1年半前くらいの話。そう思うとよく復帰したな自分。笑

シンママになっても自分の人生を追いかけた24歳

シングルになったのが、今年の2月です。まだ10か月経ってないくらいかな。

離婚直前に一度だけ元旦那と顔を合わせたことがあります。この時にゆいの心は完全に一回折れてしまいました。とりあえず疲れて、もう何もしたくなくて、考えたくもなくて。ずっと追いかけてきたものを辞めようとしたことがあります。その時に引き留めてくれたのはビジネスパートナーの存在でした。

離婚後、いろいろと動こうとするものの、人と関わることに対するトラウマがありました。自己紹介をするだけで涙が出てくる。自分のやりたいことを話そうと思っても、声にする前に涙があふれてしまう。
自分が情けなくて、でも、どうしたら克服できるのかもわからなくて。

ゆいが取った行動は、完全に強硬手段のリハビリでした。自己紹介をするのが怖くなっていたから、5か月で50人と目標を決めて初めましてをし続けました。文章を書くのが好きだけど怖かったから、投稿日を決めてブログをはじめました。何度も手が止まってしまう瞬間があったけど、このままだと後悔する、の一心でした。

実際の話をします。10月までは半分病んで半分前を向いて、みたいなのをずっと繰り返していました。2か月前くらいかな。このままじゃどうしようもない、と思って先月はじめたのが、毎日のルーティンの策定とタスクを目に見える形に変えるということ。淡々と日々を送ることで、メンタルが安定するようになってきました。

12月に入り、改めて自分が何をしたいかを考え続けたときに見えてきた、女の子のキャリア、というゆいがずっとブレなかったもの。やっぱりゆいは、笑って自分の人生を生きられるママを増やしたくて、そのためには、自分の人生を生きられる女の子を増やしたい。

この1か月は転換期でした。特にこの数日はすごく大きく人生が変化しました。そして、その時に気づいたことがあります。

ゆいは、今が人生で一番幸せだと思えている。

少し前までどん底でした。年明けが一番暗闇の中にいました。でも、今はすごく充実した人生を生きていると思えています。これまでの人生で今が一番幸せです。そして、来年も再来年もその最高を更新し続けます。

25歳になったゆいが今追いかけたいもの

これは、この前自分のブログにめっちゃ書いたので、そっちを読んでください!という感覚なのですが。笑
この場でもちゃんと書きます。

10年後に「こんなはずじゃなかった」といわない人生を
生きられる女の子を増やす

(女の子に特化するのは、ゆいが「ママなんだから」と我慢を強いられたから、それだけです。もちろん男性にもそんな風に生きてほしいと思っています、興味がないわけじゃありません。)

なんとなく生きているだけである程度の幸せは担保されているのが今の日本だと思います。でもそれはある程度でしかない。

実際、ゆいは1年前まで「こんなはずじゃなかった」とずっと思っていました。家出とか離婚とか精神疾患とか、もうほんとに「こんなはずじゃなかった」の塊でした。でも、そんなことを言っていても何も変わらない。でも、言いたくなってしまうのが人間。

ならいっそのこと、その感情が沸き起こる可能性を引き下げていけばいい。

10年後にどうなりたいのかの理想を持ち、その実現可能性が少しでも引きあがる選択肢を選び続ける。結果として叶うか叶わないかは重要じゃなく。叶わなかったとしても、努力をし続けることに意味があるんじゃないかなと思っています。本気で受験勉強して前期落ちたときに、「ここまでやってだめなら仕方ない」と思えるのと同じ感覚。何もせずにただ生きて後悔するくらいなら、自分で決めて行動して仕方ないと開き直れるくらいがいい。

ゆいがずっとたらればで考え続けていたものは、年月を経て叶いそうです。不思議な感覚に襲われていますが、辿りたい運命を引き寄せるとはこういうことなのかもしれないと思っています。あんまり設計をしていたわけではないですが、今思い返せば可能性はずっと維持し続けていたのかもしれないです。可能性が消滅する選択肢は無意識に避けていました。そして、どこかで可能性が引きあがれば、ってそのタイミングを模索していたのかもしれない。

この再現性を引き上げたい。

今回の例は偶然ですが、偶然を必然に引き上げられたら。ゆいの人生においても、今周りにいてくれる大切な人たちの人生においても、これから出会う人たちの人生においても。そしたら、すごくみんなが幸せな人生を生きて死ねるんじゃないかと思っていて、それがゆいはすごく幸せ。

だって、そんな大人に囲まれている子どもたちは、きっと自分の幸せを探し続けてくれるから。

ゆいはそんな人生を生きていきます。目指す先は、すべての人が自分の彩の花を咲かせたお花畑。周りの彩に、誰かの彩に合わせるのではなく、自分が一番輝ける彩で咲いてほしい。「こんなはずじゃなかった」って後悔の残らないような、ここまでやったから仕方ないって思えるような、そして、他の人の彩も尊重できるような、そんな人であふれた社会をつくっていきたい。

叶えたい夢は、未来は、思っていても話しているだけでも叶わないから。その未来を生きられる可能性を自分で引き上げていくしかないから。ただ生きていても、ただ死ぬだけ。叶うまで生きられるなら何でもいいけど、叶ってもかなわなくても寿命でどうせみんな死ぬから。

「人生」という大きなものに本気になれる人を増やしたい。

25歳の1年は女の子に特化すると決めました。「振る舞い?」と聞いてくる人がいましたが、そういう意味ではありません。笑
将来ママになる女の子たちの未来を少しでも明るくしたい、ただそれだけです。長くなりすぎて最後まで読んでくれている人がどれだけいるかわかりませんが、気になる方はご連絡ください。


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