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父親の役割

「学校に行けない」という低学年の児童がいる。その児童はこう主張する。

「ママがいれば行ける。」

母親が「子供のために」と思って学校へ付き添う。愛する我が子から「ママがいれば行ける」なんて言われた日には「私がこの子を支えてあげなければ」と思うはずだ。親ならば誰もがついて行ってあげたい気持ちが芽生えるだろう。

そして母親と共に学校へ到着。
母親に促されて教室へ入る。母親が付き添っていることもあり、なんだか得意気だ。その児童が廊下を走る。支援員に注意される。悲しそうな顔をする児童。愛する我が子が悲しい顔をしているのを見た母親は、児童にこう話す。

「悲しかったね。」

「愛する我が子を助けたい」「なんとかして学校に行ってほしい」という思いに突き動かされて行動した母親。
しかし、こうした「行動」によって、その児童をますます学校不適応に繋げている。

母親の行動が生み出したのは、児童の被害者意識だ。児童の「私は悪くないの。周りが悪いの。だから学校に行きたくないの。なんとかして。」という暗の主張が、母親の行動によって通ってしまう。この母親は愛する我が子によって、見事に踊らされているわけだ。そしてこの行動は日常的に繰り返されるようになる。「わたしがいれば、この子は学校へ行けるんだ」という勘違いはエスカレートしていく。

子どもは本来、自分の都合の良いように物事を取り繕う生き物だ。母親が子どもの取り繕った行動を鵜呑みにして右に倣えではいけない。もしくは、母親が子どもを自分と切り離せていないという例もあるだろう。どちらにせよこの母親は、我が子のために良いことをしていると信じて疑わない。

健全な読者の方であれば、このエピソードに対し「そうじゃないだろう。」とツッコむはずだ。

この記事で問題にしたいのは母親の行動ではない。この母親がそうした状況を生み出していることに気づいていないということが問題だ。第三者の眼で自分の行動を見ることができていない。

そこで、父親の出番という訳だ。

父親の役割はドッシリ構えることに尽きると思う。上述の母親は、とにかく不安なのだ。パートナーである父親がどのような態度を見せるかで母親の行動は変わる。

父親が共に不安がった場合、母親の不安は増大する。母親に共感するのは絶対に必要だが、共感しただけで終わることは一番タチが悪い。「大丈夫大丈夫、あいつならなんとかできるよ。」と笑い飛ばすほどの気概がほしい。

「ママがいれば行ける」なんて言った日には、「お前ならきっと大丈夫。ほら、行ってこい!」と言って半ば強引にも連れ出せばいい。
「先生に怒られた」なんて言った日には、
「そうか、それは大変だったなあ!父ちゃんもよく怒られたもんだ!一番怒られるのは母ちゃんにだけどな!」なんて言って笑い飛ばせばいい。どう考えても非が先生にあるなら、「大人だって、時には間違えるもんだ。いろんな人に触れて大きくなってけ」といって微笑んでやればいい。

不安な様子の妻には「俺たちが不安がってたらあいつも余計不安になるぞ」と気づかせてやらねばならない。そして「家族で乗り越えよう」と安心させねばならない。

父親はドッシリ構えて、不安を吹き飛ばす。
大変なことを妻や子に大変と捉えさせない。
そうした役割がある。
楽観主義を装うとでもしておこうか。

家族の「不安増進装置」にだけは絶対になってはいけない。

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