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図書館のそば

村上春樹氏の短編に、『納屋を燃やす』というのがあった。その作品と今日似たような経験をしたからここに書こうと思う。ネタバレを含むため、もし必要ならここで読むのをやめることを推奨する。



『納屋を燃やす』は氏の小説の中でも最初期に書かれた作品で、彼の以降の作品で行おうとしていた文章の原型が見られる。猫は出てこないし、パスタも茹でていない。さて、本題に入る。その作品のタイトルに関して、これがどのような意味を持つのかまず疑問に思う。フォークナーの短編に『納屋は燃える』というタイトルの短編があるように、おそらく納屋は意識的に燃やすものではなく、燃えるものではないだろうかと思われる。日常文法下にありつつも、どこかそれが非現実的な形で接続しているという氏の特徴的な文体を表すかのようなタイトルである。

この作品の中では、『時々納屋を燃やすんです』と言う人が出てくる。そしてその人が一人称の語り手として登場する人物の家の近くにも、ちょうどいい納屋があるからそろそろ燃やすと言う。ならどの納屋を燃やすのかを調べてみようと語り手は思い、自宅周辺の納屋を入念に調査する。そして納屋を毎日パトロールするのだが、結局燃えた納屋は見つけることができなかった。もう燃やしたと伝えられたが、同じパトロールコースを走り続けても見つけることはできなかった。以上が作品の概要である。

ここからは今日の僕の話である。僕は自転車で大学の図書館に向かった。大学はもう春休みで、学生もあまりいなかった。すっかり構内に慣れてしまった僕ではあるが、毎年この時期になると受験の結果発表特有の緊張を思い出す。少し改まった気持ちになった。とても気分の良い天気で、それこそサクラサクだった。途中、図書館のそばに丸太が積み上げられていたのに気がつく。あまり太い木ではなかったようだが、丸太の量の多さから、高さのあった木であったのだろうと推測できる。本を返しに行くだけの用事であった僕は、切られた木がもともと生えていた場所を探してやろうと言う気になった。構内はグラウンドと7つ程度の建物と食堂、さらに図書館のある比較的狭いキャンパスであったが、木々は多く、農学部の実習林なども兼ねるほどであった。猫や鶏なんかもいる。その狭いキャンパスで、木が少しまで生えていた場所を探そうとしたのである。しかしとうとう、切り株を見つけることはできなかった。構内を何周もした。猫もいなかった。僕は少し不安になる。この丸太は以前から何かの目的のために運ばれてきたものであったのだろうか、例えばどこかで世界が間違った分岐をして、そのことを表すものではないか、あるいは何か思い出せない大切なことがあったのではないかと。その丸太があまりに遊離している。もしくは僕が丸太のある世界に紛れてしまったのか。何もわからない。ただそこには丸太がそこに積まれていて、切り株はどこにも見つからない。納屋が燃やされたのだと僕は思うことにした。


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