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メディアは、出演者の存在を誇大にする。
私の住む街では日夜、選挙演説が行われており、
その立候補者の中には、
メディアを賑わせる大物芸能人や政治家の顔ぶれが。
ただ、近くでぼぉとその様子を窺っていると、
彼らは単なる私にとっての赤の他人に過ぎず、それ以上、それ以下ではないと気付く。
話はここからだ。
私はメディアの発揮するこの強力な仕立て上げの能力に賞賛の拍手を送ると同時に、危機意識を向ける。
テレビメディアは、性質上、
世間のスクリーンに同じ人間を何分間も映したりする。
そうした人間は、皮肉なことにメディアによる攻撃対象になったり、本質以上に華美にあるいは悪人に表象されて、印象操作される。
今、これがメディアの性質と記したが、この性質は変えられる。
その特効薬は、すでに存在し、健全に世界中で活躍している、ドキュメンタリー制作者らだ。
ドキュメンタリーは、被写体を今にとりわけフォーカスして、もちろん制作者側それぞれの意図による映像のディレクションは行われるが、(世間のテレビメディアで行われる、被写体もそうするように演じるなどいった)確信的な印象操作は、行われない。
いや、行えない。
ドキュメンタリーが映すものは、今は今でも、喫緊性を伴った地域/人の今だからだ。
芸術作品性としてもドキュメンタリーは、構築され得り、その際は教育的な側面の役割も大いには果たす。
急速な大衆消費を煽るメディアでも、
ドキュメンタリーはこの業界、世間のヒーローとなっている。
ドキュメンタリーは、
人間をいかなる状況でも、(本質を変えずに)同じ人間として扱ってくれる。
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