約6年前、米津玄師は「ハリボテになりたくなかった」と言った
昔々、恵比寿にあるリキッドルームというライブハウスに行きました。
米津玄師さんのライブでした。
ツアータイトルは「帰りの会・続編」、初ライブを行った代官山UNITでのライブのその名も続編です。
彼も当時ライブはまだ片手で数えられるほどしかしていない、貴重なライブでした。
メンバーはフラッと登場しました。ギターの中ちゃん、ベースのすってぃ、ドラムの堀さん、そして米津さん。バンドメンバーではないのに、今でもバンドメンバーがほとんど変わらないのは、すごいことだと思います。
このツアーはアルバム「YANKEE」を引っ提げたツアーでした。
アルバムの曲を中心に、当時は新曲であった「Flowerwall」の披露にハチ時代のセルフカバーも歌ってました。
その時の「パンダヒーロー」は未だに覚えてます。カラフルな迷宮のような、ポップな違和感があって、そんな違和感が可愛らしくて、とても好きな世界でした。そして、全ての曲に言えますが、音楽に命が吹き込まれた瞬間でもありました。
米津さんは最初から最後まで淡々とライブをこなしました。まだ人前で歌いはじめて数回だというのに、妙に落ち着きがありました。ですが、その落ち着きは不自然ではありませんでした。
「関係者や周りの人にはもっと大きなところで出来ると言われた。でも、ハリボテになりたくなかったから、小さいところから徐々に積み重ねようと思った。」
確か、アンコールだったと思います。
一字一句あっている自信はありませんが、このようなことを言っていました。
当時のこの言葉が、未だに引っかかっています。引っかかるという表現は少しおかしいでしょうか、断片として私の体に残っています。この日のライブ以降、数年後、この言葉の真相が分かるような気がしたのです。
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高校三年生の受験が終わった冬のことだった。「当たったら行こう」と思っていた米津さんのライブに運よく当選した。当時から倍率は高かったため、単純に嬉しかった。
私の学生時代はボーカロイド最盛期で、当時世間の偏見が強かった初音ミクやGUMIに大して抵抗なく聴いていたし、周りの人間もボカロに精通していたため疎外感は感じなかった。そして米津さんは私の大好きなBUMP OF CHICKENが好きだということを公言していて、ハチが米津玄師という人間だという正体を明かしても、BUMPが好きなボカロPがいるという理由で、自然と聴いていた。
だから、チケットを申し込むのも当然だった。「絶対行きたい!」ではなく「当たったら行こう」と思ったのは、最初から倍率が高いと分かっていたからだった。
それから米津さんはまだライブを待っているファンに向けて、ライブを行うに連れてファンを獲得して、動員数は雪だるまのようにごろごろと増えた。
ライブハウス、フェス、RADWIMPSの対バンツアー、ホールツアー、アリーナツアー、武道館、紅白歌合戦。
立つステージは、どんどん大きくなった。
比例して、チケットの倍率はどんどん高く、今ではチケットが取りづらいアーティストにまでになった。
まさしくあっという間に売れた。
気がつけば、誰もが手の届かないところにいた。
当たり前の結果だ。
私も米津さんのライブは何度か見た。
ラブシャでの夕暮れ時に聴く「アンビリーバース」はとても気持ちよかった。大宮ソニックシティで「今度武道館やるけど、武道館の凄さが今一つ分からない」と言っていたのは米津さんのライブで一番笑った。豊洲PITのライブのアンコールでファンの寄せ書きの横断幕を背負いながら登場して、ギャップを感じた。
私も最初は思った、ライブ活動をはじめたばかり同然のミュージシャンだが、そのミュージシャンは米津玄師。既にファンがたくさんついている。米津さんならいきなりZeppTokyoでも出来たのでは?おそらくその広さでも当時の米津玄師の人気は「米津玄師のライブに行きたい人」は収められない。
米津さんがインターネットを飛び出して世界に羽ばたいた今、同時に思い出す、米津さんのライブを初めて見た、あの時の言葉を。
「ハリボテになりたくなくて、小さいところから徐々に積み重ねようと思った」
米津さんの真面目な姿勢と自分を客観視する鋭い視点、米津さんが自分で選別した判断は、全て正しかった。
こんなMCしていたななんて独り言はことはいつだって言えた。そう言えばあんなこと言ってたよなって。
でも数年経った今、私の記憶の内側からその米津さんとしては当たり前に発した言葉が、意思を示すように、色濃くなっているんだ。
記憶の断片に静かに佇んでいた言葉は、意味があった。だからずっといたんだ。
数々のレコード記録を樹立して、アルバムをミリオンヒットさせて、音楽の歴史を塗り替えて、数字をしっかり残して、日本の宝になった。
米津さんが作った功績これら全ては天性の音楽の才能、音楽と自分に向き合う真摯な姿勢、何よりも米津さんがあの日話していた「小さいところから徐々に積み上げたもの」の努力の結晶だと思うのだ。
米津玄師は知られるべくして知られた。
それを分かっていても、ゴールまで決して努力を怠らなかった。着実に、着実に、ゆっくり歩んだ。
自分がしてきたことに、必ず意味が見出せるように。
自分が作ってきたものに、嘘が無いように。
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