見出し画像

【3.11からの手紙/音の声】ライブハウスの小さなギャラリーで、静かに泣いた

知らない親戚が津波に襲われた

震災当時、私は中学2年生だった。地元の横浜に住んでおり、当日はインフルエンザにかかり部活と学校を休み、偶然家で寝込んでいた。

父は家に、母は買い出しから帰宅、弟は小学生だったため、平日の午後2時の時点で偶然にも家族が揃っていた。

高熱で寝込んでいると、家の隅々から不審な音、かなり大きめの地震が来た。後に東日本大震災となる。我が家はマンション住まいで地震があるとすぐにリビングに集まりすぐにNHKをつけるのだが、そんな余裕は無かった。

どんどん揺れが大きくなる。テレビはうちわのようにバタバタと前後し、照明はわざと揺らしているのではないかと思うぐらい大げさに、机の教科書はガタガタと雪崩を落とし、食器棚も物凄い勢いでガシャガシャと音を立て、揺れがおさまるまで耐えるしかなかった。

神奈川は震度5強だったが、観測以上に揺れたと思う。だけど、それよりも悲惨な現実があった。震源はどこだ、とテレビをつけた。

東北地方で大規模地震 マグニチュード9.0

生まれてこの方日本から出たことない私、見たことのない数字だった。
テレビを付けると報道陣は大急ぎで地震速報に切り替える。そこにはショッキングな映像が次々と流れた。

押し寄せる津波、流される街、車、家。映画のCGではなく泥水のような波は、紛れもなく実際にリアルタイムで起こった映像だった。生中継で制御不能の津波が街を飲みこんでゆく。その映像を家族で呆然と1時間ほど見ていた。その時間、誰も言葉を発しなかった。それほど現実が受け入れられなかった。地震があるたびに海の近い地域には何度か津波警報が出されたにも関わらず、同じ日本で起こっていることだなんてどうにも思えなかった。

震災直後は計画停電のため午後の授業と部活は中止、地震当日の話を友達に聞くと伸びた学校の時計はブンブン揺れていて、教室の椅子が崩れ落ち、全員校庭に避難するも1部生徒が発狂してしまい、散々だったという。

地震から数週間後、母伝に東北に住む会ったことどころか名前も知らない遠い親戚がはるばる東京のおばあちゃんちに来たらしい。私から見て母方のおばあちゃんの実家は岩手の三陸海岸沿いだと聞いたことあるのでそこら辺の親戚だろう。私とその親戚は血は繋がっているのかわからないが、繋がっていたとしてもギリギリだと思う。その親戚は4人家族のはずだった。

母と小学生になったばかりの子どもを残し、お父さんが津波に飲まれて亡くなったそうだ。そのお母さんは言った。

「急いで家の屋上に逃げた、でもパパだけ間に合わなかった。目の前で津波に飲まれてしまった。もし私がパパを助けに行ってたら、こども2人だけ残してたかもしれない」

とても悲しかった。名前も顔も知らないけど身内が津波で亡くなった。東日本大震災の死者の1人になった。屋上に逃げたこどもたちもさぞ怖かっただろう。パパとこどもたちを守りたかったママも怖かっただろう。津波に襲われてしまったパパはもっともっと怖かっただろう。天災に逆らえず流されるパパを見るだけなんてどれだけ悲しかったのだろう。どちらにせよパパは間に合わなかった。それ以来その遠い親戚には会っていないので今どうしてるかは知らないのだが、どこかで仮設住宅に住むには限界があると言っていたようなことを聞いた。まだ仮設住宅に住んでいる人が4万人を超えているとニュースで見た。その親戚はその中の3人(4人)、まだ新しい自分のおうちがないと考えるとまた悲しくなった。

そしてライブに遠征するようになった今、全国各地を周り、もちろん仙台にも何度もいった。震災から3年後のBUMP OF CHICKENの仙台のライブにいった時、ライブの終わり側に藤くんがこう言った。

「東北、負けんなよ」

「負けるな」というのが藤くんらしいなと思って未だに脳裏に残ってる。頑張れでも、生きろでも、「負けるな」って、ハッとするなって、正気戻せるなって。

私は被災していない、だけど3.11は音楽を聴いて、ただ想いを寄せる。

3.11からの手紙/音の声

話が長くなってしまった。でも導入がないとこの展示に来た意味がない。東日本大震災は日本人全てが忘れてはいけないことでもあるが、横浜出身(現埼玉人)にとってもは絶対に忘れてはならない出来事だ。

ライブ撮影を中心に活動しながらも、東日本大震災の現地の現状を取り続けるカメラマンの石井麻木さんが毎年行っている写真展「3.11からの手紙/音の声」に行ってきた。

数カ所で行われているが、私が行ってきたのは恵比寿リキッドルームに併設するKATAというギャラリースペース。入場無料、アルコール消毒を終えて展示を見る。

1面に石井さんが今まで撮ってきた写真がずらり。その中で、ある写真のコメントにこう綴られていた。

「写真を撮るのは暴力になるかもしれない」

マスコミやカメラマン、取材陣が忘れている心構えだと思った。夜な夜なヘリコプターの音で寝れないなど、未だに問題は解決しない。写真の暴力、残すことへの罪悪感。でもこうして写真展に行ったりすると、記録を残すことの大切さを痛感する。

被災地の時は止まっていた。教室に置かれたままのランドセル、消されないままの黒板、ぐちゃぐちゃになった街を駆ける郵便のバイク、被災した高齢の女性が自死してしまったこともあったらしい。

でも希望もあった。夢を描いたキャンドル、ピエロがこどもたちを楽しませる姿、笑顔のこどもたち。

石井さんが取り続ける被災地は、テレビなどでは報じられない姿ばかりで、改めて悲惨さを思い知らされた。メディアは絶望か希望のどちらかにフューチャーするが、石井さんが撮る写真は被災地の日常だった。それは絶望と希望がどちらもあって、だからこそ感動の押し付けなどなく、フラットな感情で見ることが出来た。

反対側に、見慣れたアーティストのライブ写真。

四星球は法被にブリーフといつのもおバカな格好をしているし、今をときめくアイドルBiSH、サンボマスターなどのベテランバンドから一際輝く大女優の長澤まさみさん、一番嬉しかったのは復活した今のELLEGARDENの姿があった。

石井さんの写真は躍動感というよりはライブの熱気を一瞬に詰め込んだような余白のある写真で、全てのショットが魂の1枚だった。人がギュウギュウに詰まってて、人が人の上を転がってていて、人が人の上に立っていて、狭い箱のなかで出来た熱気の渦のど真ん中にいたあの頃が、何もかもが恋しくなってしまった。

”いつも”のライブハウスだった。

ライブハウスに帰りたくなった。

いつの間にか、震災とこのコロナの状況が重なっていた。

この展示で震災のとき被災されていた方が助けられていたのは、音楽だったと知った。

場内のBGMはチープなラジカセから流れてくる音楽。こうして被災されていた方は、生きるのに必死な中、音楽で微かな希望の光を探していたんだ。

撮影された方のことを考えて、再起しようとする方に向けたアーティストのシンプルなメッセージが胸にグッときて、反面大した金額を寄付出来ない自分は無力だなとか、いろんな感情が渦巻いて、ポロポロと静かに涙が溢れた。

どうして被災された方は音楽に救われていたのに、今音楽をする場所が尽く奪われなければいけないのだろう。

音楽は見えないからこそ無限大の力になりうる。どうして音楽を見てみぬフリをするのだろう。

石井さんの写真を見て、音楽の偉大さも思い知った。被災者だけじゃなかった、毎日ニュースは日々増えていく死者と行方不明者のカウント、津波の映像、たびたび起こる余震、計画停電で授業も部活も出来ない当時の私も救われていたことを思い出した。

震災から10年、コロナウイルスが未だ蔓延し、政府やらの愚策でライブハウスの営業はままならず、この一年でライブハウスの閉店の知らせも相次いだ。

これから10年後、また予想だにしない天災が起こるかもしれない。自然の怒りに逆らうことなんて出来ない。だからこそ、定期的に防災セットを見直したり、教訓を生かして未来のために対策をするしかない。

ひとりでも守りたい人と1日でも一緒に生き抜けられるように、今日も私に出来ることをする。

画像1

こちらの写真集を購入すると全額寄付していただけるそうです。被災者の無くなってしまったおうちがまた建てられるように、壊れたまちが綺麗になりますように、東北ライブハウス大作戦がずっと続きますように。

最後までお読み頂きありがとうございます!頂戴したサポート代はライブハウス支援に使わせていただきます。