誰がために鐘は鳴る

この話は、曖昧な記憶から始めてみる。
私は海辺に立っていた、私は10代の半ば頃。時は夕暮れ、サーモンピンクの空にたなびく雲と足元の濡れた灰色の砂。
その時なんとも言えぬ感情が湧き上がり、それがどこから来て何を意味するかまるで分からなかったけれど、激しい情動と共に浮かんだ思いはこのようなものだった。
「この景色を、いつか私の本当に愛する人と共に見たい、私は生きて必ずその人を見つけるのだ」

この世界は美しい、そう実感を持ったのは高校1年の時だ。海外でのひと月ほどの留学中、それまで空は空、木々は木々に過ぎなかった風景が突然光を纏い輝き出した。
町のプールで女友達数人と遊んでいたら、ふいに互いが互いを担ぎ上げ水中に投げ込む遊びが始まった。平衡感覚は失われ、天と地、空と水が混ぜこぜになる、金色の水飛沫と戯れの隙間から見る空の色合いに、息を切らせ叫び笑い合うぐしゃぐしゃの興奮の中、「あぁ、世界はなんて美しい」と感じたのが始まりだった。
自身の感覚を分かち合える誰か、それを求める強い願いは、深い孤独を感じることとよく似ていた。

海辺に立つ少女の私が思い浮かべた誰かとは、結局誰のことだったのだろう。いつしかそんな願いがあったことさえ忘れていた。
それでも時折心揺さぶる風景に出会う度、ある鳴鐘を耳にしていた気がする。わたしはここにいます、と。夕刻を知らせる鐘は、今もかなたでその声を響かせている。

”…any man's death diminishes me, because I am involved in mankind,
and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee.” John Donne

「誰かの死とは私自身が欠けることなのだ。私は人類の一員なのだから。
よって『誰がために鐘は鳴る?』などと尋ねまわることはない、
他者を弔う鐘は、君のために鳴るのだから。」



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