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ハイデガー『存在と時間』26節 

岩波文庫(熊野純彦訳)
第一篇      現存在の予備的な基礎的分析 
第四章 共同存在ならびに自己存在としての世界内存在「ひと」

●現存在が世界内存在として、とりわけ他者たちとどのように存在しているのかが問題となる

・「他者たち」とは何か

→単に「私以外の人々の全体」というカテゴリー的な意味ではない。「他者たち」とはむしろ、ひと自身がそこから自分をたいていは区別せず、ひともまたそのもとで存在している者たちなのである。この〈他者たちと共にまた現に存在していること〉は、世界の内部で並列して目の前に置かれているというような意味ではない。「共に」は客観的な様子の記述ではなく現存在のもつ性質であり、「また」は配慮的に気づかう世界内存在として同じ在り方をしていることを指す。(p.80)

・「この〈共に〉を帯びた世界内存在にもとづいて、世界はそのつどすでにつねに私が他者たちと共に分かち合っている世界なのだ。現存在の世界は共同世界であり、内存在とは他者たちとの共同存在である(p.80)」

→現存在は世界内存在として上記の〈共に〉という性質をもっているから、現存在のかかわる世界は他者たちと分かち合われた「共同世界(Mitwelt)」であり、その内にある(内存在)とは他者たちと「共にある=共同存在(Mitsein)」ことである。

・「他者たちが出会われるのは、世界の側からであり、配慮的に気づかいながら目配りする現存在は、その本質からして当の世界のうちに引きとどまっている(p.82)」

→他者たちとの出会いは、自分の主観がまず確定していて、それとは区別された反対のものとして出会われるのではない。他者たちは、配慮的に気づかう現存在がつねにその内にいる世界の側から出会われるのだ。つまり、意味のネットワークである周囲世界において出会われると、現象的な説明としては言うことができる。

・「現存在が「じぶん自身」をさしあたり見出すのは、自分が従事し、使用し、期待し、身を避ける当のもの――さしあたり配慮的に気づかわれる周囲世界的に手もとにあるもの—―においてなのである(p.82)」

→上記のような、「世界の側から」という出会い方は現存在にとってもっとも身近で始原的なものである。そのため、現存在の(固有な)「体験」や「作用中心」を無視しているときには、自分に固有な現存在自体がさしあたり「目の前に見いだされる(目の前にある存在者として捉えられる?)」ほどである。なぜなら現存在はさしあたり、配慮的に気づかわれる周囲世界の内の手もと的存在者(道具的存在者)として自分を見出すからである。

・「〈ここにいる私〉は、手もとにある世界の〈あそこに〉から自分を内存在として理解しており、配慮的な気づかいとしての現存在のもとで〈あそこに〉引きとどまっているのである(p.83)」

→現存在が自分自身を〈ここにいる私〉とはっきりと言うときにも、この場所的な人称規定は現存在の実存論的空間性から理解されなくてはいけない。〈ここにいる私〉とは「自我」という際立った一つの点を指すのではない。〈ここにいる私〉は内存在として、配慮的に気づかう現存在がその内に在る「手もとにある世界(道具的なあり方をしている世界)」のあそこから自分を理解しているのだ

・「ここに(私)」「そこに(きみ)」「あそこに(かれ)」というふうに、人称代名詞と場所の副詞がかぶる言語がある(W・フォン・フンボルト)。どちらが根源的な意味をもつかという話になるが、これも結局は現存在としての「私」との関連が問題となる。

 つまり、「ここに」、、、などの言葉は、第一次的には空間的に目の前にある、世界内部的な存在者が有する純粋な場所の規定ではない。場所の副詞と思われているものは現存在の規定であり、第一次的にはカテゴリー的な意義ではなく、実存論的意義をもっている。また単なる代名詞でもなく、その本義は場所の副詞と人称代名詞の差異に先立つものなのだ。(ハイデガーいわく)

 その本義とは、本来的に空間的な現存在にまつわることである。

 「理論的に歪められていない現存在解釈は、現存在が空間的に、つまり隔てを遠ざけて方向を合わせながら、配慮的に気づかわれる世界の「もとで存在していること(sein bei)」において現存在を直接に見てとっていることである(p.84)」

→現存在は空間的に、言い換えれば距離と方向を意識しながら、配慮的に気づかわれる世界(「手もとにある世界」と言い換えられるだろうか)のもとで存在している。「ここに」等の言葉の本義はこのことにもとづいている。

 たとえば、(自分の世界に没入している)現存在が「ここに」と語る場合、単に自分を指示しているのではない。自分を離れて「目配りにより手もとにあるもの(意識されている道具的存在者)」の「あそこ」が目指されているのだが、そのことで実存論的な空間性における自己も指示されているのだ。つまり、「あそこ」との関係において「ここ(自己)」が指示されているという感じだろうか。

 

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