ドストエフスキー『罪と罰』⑦ 「パーセント」なら、心配なし!
前回の記事は↓
老婆殺害計画を思いつき、そんな自分にぎょっとしたラスコーリニコフはベンチを探して歩いていました。すると、少し前を奇妙な少女が歩いていることに気が付きます。すると彼女がベンチに倒れこんだので、ラスコーリニコフは大丈夫なのかと彼女の顔を覗き込みます。
ひどく酔っぱらっていて、服もところどころはだけている少女がベンチにへたり込んでいます。しかも、この少女から少し離れたところに、こちらをうかがっている30ほどの紳士がいることにラスコーリニコフは気が付きます。こいつは、この前後不覚に陥っている少女を襲おうとチャンスを狙っているんだと思ったラスコーリニコフは、「おい、きみ、スヴィドリガイロフ君! ここに何の用があるんです?」と紳士を威嚇します。ここで「スヴィドリガイロフ君」という言葉が出てくるのは、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフを「少女を狙う悪党」と考えているからですね(ドゥーニャの件があるので)。
ラスコーリニコフとその紳士は一触即発といった空気になりますが、そこでタイミングよく?巡査がやってきます。ラスコーリニコフはその巡査に状況を説明します。
まぁ、そういうことです。しかもどうやら、見たところお嬢さん育ちらしい。「たぶん、生まれはいいが、落ちぶれた家の娘なんでしょうな……」と巡査は言います。つまり、何かの理由で家が落ちぶれてしまい、暮らしが荒廃してしまった。そこでやさぐれてしまった少女は、悪い連中にだまされて、捨てられた……。
彼女を哀れに思ったラスコーリニコフは、巡査に20カペイカを渡し、あの紳士から彼女を守りつつ家に送ってやってほしいと頼みます。「(彼はポケットをさぐって、20カぺイカをつかみだした。よくあったものだ)」とその様子が書かれています。(「よくあったものだ」とはなかなか笑わせますね)
すると少女は、ほっといてくれとばかりにフラフラと歩き出し、それを見ていた紳士(「紳士」と呼んでいますが、行動はまったく紳士ではない)も追いかけ始めました。巡査も「ご心配なく、渡しゃせんです」とラスコーリニコフに言って、あとを追い出しました。残されたラスコーリニコフはひとり自分に問いかけます。
この出来事の直前に、ラスコーリニコフは老婆殺害計画をリアリティをもって思いついていたわけです。自分の「思想」を根拠に人殺しをしようとしている、そんな自分が今さらよくある悲劇に同情するなんておかしいじゃないか……。彼は少なくとも頭ではそう考えます。
ところで、「そんな権利がおれにあるのかい?」という部分で、私は「進撃の巨人」のエレンを思い出しました。もうすぐ自分が地ならしをする(つまり皆殺しにする)マーレの地で、それでもエレンはそこで虐げられている少年を助けます。少し似ているところがありますね。もちろん、少しだけですが。
ラスコーリニコフはさらに思考を巡らせます。
ずいぶん長く引用してしまいました。引用も記述も、なるべく簡潔にしようと思ってはいるのですが、なかなか難しいですね。これまで岩波文庫から引用していたのにここで光文社古典新訳を使ったのは、こっちの方が内容が分かりやすいと思ったからです。
さて、「パーセント」です!
今の日本社会でも、いやむしろこの頃のロシア以上に使われている言葉でしょう。毎年、何人が自殺していますとか、戦争でどれだけの人が死にましたとか、新入社員の離職率とか、ま、なんでもそうです。要するに、データです。統計です。数字です。まぁ、数字なら、とくに心配はないし、良心もそんなに痛まないでしょう。
しかし、ラスコーリニコフの言うように、これが別の言葉だとしたら、どうでしょう? この数字に、自分や、自分の愛する人が入るとしたら?
この少女は、いうなればバットエンドに向かおうとしているドゥーニャ、あるいはソーニャですね。だからこそ、ラスコーリニコフは彼女を助けようとした(極貧なのにお金まであげて!)と言えるでしょう。しかし、すでに見たように、そういう自分の行動を疑問視する気持ちも生まれています。心的な疲労と、分裂した思考。この下地が、ラスコーリニコフを老婆殺害へと導いていきます。
次のシーンは、夢の中でやせ馬が殺されるところです。しかし、私はこのシーンをうまくつかめてないんですよね……。斧で「ミコールカ」が殺しているので、ラスコーリニコフの分身、殺害の暗示と言ったところでしょうか……。なかなかむつかしい……。くどくど説明するような記事は書きたくないし、今後どういう風に書いていくか、考え中です。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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