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ドストエフスキー『罪と罰』⑦ 「パーセント」なら、心配なし!

前回の記事は↓


 老婆殺害計画を思いつき、そんな自分にぎょっとしたラスコーリニコフはベンチを探して歩いていました。すると、少し前を奇妙な少女が歩いていることに気が付きます。すると彼女がベンチに倒れこんだので、ラスコーリニコフは大丈夫なのかと彼女の顔を覗き込みます。

その顔をのぞくなり、彼は娘がひどく酒に酔っていることに気づいた。それは、見るからに奇怪な、そら恐ろしいばかりの光景だった。

—目の前にあるのは、せいぜい十六、もしかしたら十五にしかなっていないような、まだ子ども子どもした顔だった。ブロンド髪の、小さな、きれいな顔、しかしそれは、いちめん真赤に腫れあがっている。

『罪と罰』岩波文庫

 ひどく酔っぱらっていて、服もところどころはだけている少女がベンチにへたり込んでいます。しかも、この少女から少し離れたところに、こちらをうかがっている30ほどの紳士がいることにラスコーリニコフは気が付きます。こいつは、この前後不覚に陥っている少女を襲おうとチャンスを狙っているんだと思ったラスコーリニコフは、「おい、きみ、スヴィドリガイロフ君! ここに何の用があるんです?」と紳士を威嚇します。ここで「スヴィドリガイロフ君」という言葉が出てくるのは、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフを「少女を狙う悪党」と考えているからですね(ドゥーニャの件があるので)。
 
 ラスコーリニコフとその紳士は一触即発といった空気になりますが、そこでタイミングよく?巡査がやってきます。ラスコーリニコフはその巡査に状況を説明します。
 

どこのどういう女かわからないが、商売女じゃないらしい。きっと、どこかで酒を飲まされて、だまされたんですよ……はじめて……わかりますね?
それで、そのまま通りへ放り出された。ごらんなさい、こんなに服がやぶけている。それから、この服の着方はどうです。自分で着たのじゃなくて、ひとに着せられたんだ。

同上

 まぁ、そういうことです。しかもどうやら、見たところお嬢さん育ちらしい。「たぶん、生まれはいいが、落ちぶれた家の娘なんでしょうな……」と巡査は言います。つまり、何かの理由で家が落ちぶれてしまい、暮らしが荒廃してしまった。そこでやさぐれてしまった少女は、悪い連中にだまされて、捨てられた……。

 彼女を哀れに思ったラスコーリニコフは、巡査に20カペイカを渡し、あの紳士から彼女を守りつつ家に送ってやってほしいと頼みます。「(彼はポケットをさぐって、20カぺイカをつかみだした。よくあったものだ)」とその様子が書かれています。(「よくあったものだ」とはなかなか笑わせますね)

 すると少女は、ほっといてくれとばかりにフラフラと歩き出し、それを見ていた紳士(「紳士」と呼んでいますが、行動はまったく紳士ではない)も追いかけ始めました。巡査も「ご心配なく、渡しゃせんです」とラスコーリニコフに言って、あとを追い出しました。残されたラスコーリニコフはひとり自分に問いかけます。

「―それにしても、おれはなんだって人助けなんか買って出たんだろう! 人助けをする柄かい? そんな権利がおれにあるのかい? あんなやつらは、おたがい取って食い合えばいい。おれの知ったことか。—」
口ではこんな奇妙な言葉を吐いていたが、内心はひどくせつない気持になっていた。

同上

 この出来事の直前に、ラスコーリニコフは老婆殺害計画をリアリティをもって思いついていたわけです。自分の「思想」を根拠に人殺しをしようとしている、そんな自分が今さらよくある悲劇に同情するなんておかしいじゃないか……。彼は少なくとも頭ではそう考えます。
 ところで、「そんな権利がおれにあるのかい?」という部分で、私は「進撃の巨人」のエレンを思い出しました。もうすぐ自分が地ならしをする(つまり皆殺しにする)マーレの地で、それでもエレンはそこで虐げられている少年を助けます。少し似ているところがありますね。もちろん、少しだけですが。

 ラスコーリニコフはさらに思考を巡らせます。

《あの娘、かわいそうに!……》
空になったベンチの隅を見やりながら、そうつぶやいた。
《正気に戻り、ひと泣きし、それから母親に知られる……。
はじめは軽くびんたを張られるぐらいでも、いずれこっぴどく、それこそ恥も外聞もなく鞭で叩かれるんだ、ことによると、家から追い出されるかもしれない……。
追い出されずにすんでも、どのみち、ダーリヤ・フランツェヴナみたいな女衒に嗅ぎつけられ、いずれあの娘も、あっちやらこっちやらに出没しはじめるんだ……で、たちまち、病院行きってわけだ(ごくごく堅気の母親と暮らしながら、こっそり親の目を盗んで火遊びする娘にかぎって、つねにそうなる)、で、そのあとは……そのあともまた病院行き……酒……タバコ……そしてまた病院……二、三年もたつうちに、廃人になって、十九か十八そこそこであの世行きってわけだ……そんな女たちを、このおれだってずいぶん見てきたじゃないか!
で、どうしてそんなふうになったか? そうとも、ああしてああなった、それだけの話だ……ちぇっ! どうぞご勝手にだ! そうなって当たり前というじゃないか。毎年、それぐらいのパーセントは失せなくちゃならんのさ……どこへ……たぶん、悪魔んとこだ、ほかの連中をせいせいさせるため、ほかの連中の邪魔にならないように、だ。
パーセントね! たしかに、ほかの連中にすりゃ悪くない言葉だ。けっこう気が晴れるし、科学的だし。パーセントだから心配は何もない、だとさ。それが別の言葉だったら、おそらく少しは気になるところだぞ……で、もしもドゥーニャが、何かの拍子にこのパーセントに取り込まれたりしたら!……このパーセントじゃないにしても、ほかの数に?……

『罪と罰』光文社古典新訳文庫

 ずいぶん長く引用してしまいました。引用も記述も、なるべく簡潔にしようと思ってはいるのですが、なかなか難しいですね。これまで岩波文庫から引用していたのにここで光文社古典新訳を使ったのは、こっちの方が内容が分かりやすいと思ったからです。

 さて、「パーセント」です!
 今の日本社会でも、いやむしろこの頃のロシア以上に使われている言葉でしょう。毎年、何人が自殺していますとか、戦争でどれだけの人が死にましたとか、新入社員の離職率とか、ま、なんでもそうです。要するに、データです。統計です。数字です。まぁ、数字なら、とくに心配はないし、良心もそんなに痛まないでしょう。
 しかし、ラスコーリニコフの言うように、これが別の言葉だとしたら、どうでしょう? この数字に、自分や、自分の愛する人が入るとしたら?

 この少女は、いうなればバットエンドに向かおうとしているドゥーニャ、あるいはソーニャですね。だからこそ、ラスコーリニコフは彼女を助けようとした(極貧なのにお金まであげて!)と言えるでしょう。しかし、すでに見たように、そういう自分の行動を疑問視する気持ちも生まれています。心的な疲労と、分裂した思考。この下地が、ラスコーリニコフを老婆殺害へと導いていきます。

 次のシーンは、夢の中でやせ馬が殺されるところです。しかし、私はこのシーンをうまくつかめてないんですよね……。斧で「ミコールカ」が殺しているので、ラスコーリニコフの分身、殺害の暗示と言ったところでしょうか……。なかなかむつかしい……。くどくど説明するような記事は書きたくないし、今後どういう風に書いていくか、考え中です。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
 

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