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遠野カッパ旅、序文

 旅は好きだ。その割には、めったに行かない。ひとえに諸々の準備が面倒だからである。「休みが取れたら」だの「季節が良い時に」だのは、総じて「面倒くせぇ」の言い換えに過ぎない。それでもごく稀に、旅に行きたい気持ちが面倒臭い気持ちに勝つことがある。今回の岩手旅行がそれだった。

 この旅の最たる目的は、遠野のカッパ淵である。遠野市といえば、妖怪好きの多くが憧れる地ではないだろうか。別にアンケートを採ったわけではないので知らないが、わたしは十代の頃から静かに熱烈に憧れて続けていた。そろそろ貯まった休みを消化せねばならないというタイミングに、好きな小説家の遠野に因んだ作品を読んで、これはもう年貢の納め時だと思った。いざ行かん、かの戦慄の地へ。

 なぜ岩手県に行くのか?と人から問われるたび、わたしは正直に答えた。「カッパが出るって有名なんですよ。」すると大半の人が「へぇ」に続けて「それで、どうして?」とさらに小首を傾げた。
 そこでわたしは気づいた…というよりは、うっすら知っていたことを再確認した。カッパというのは旅行のメインの目的として、あまり一般的ではないのである。

 さもありなん。(そもそも「あぁ!」ではなく「へぇ」と返ってくる時点で、"有名"という前提が危ぶまれる。) とはいえ、ためしに会話の「カッパ」のところに「温泉」や「牛タン」など任意の名物を代入してみてほしい。「温泉が有名なんですよ」と言われて「で、どうして?」と尋ねる反応は、なかなかに素っ頓狂ではないだろうか。なぜカッパだけが、このような憂き目に遭うのか。

 その理由のひとつとして、温泉や牛タンとは異なり、効用が想像しにくいということがあるかもしれない。温泉に浸かれば健康や美容に良さそうだし、牛タンやカニは美味しそうだ。景勝地に行けば目の保養になる。しかしカッパは、そのような利点がわかりにくい。のみならず、カッパに対しての適切な行動すらピンと来ないのではないか。たぶん食べることは無いし、浸かることもないし、映えることもなさそうだ。

 わたしが民俗学者であれば、「カッパを採集しに行きます」と格好よく言いたい。あるいは今風のノリであれば「カッパを推しに行きます」というのも悪くない。採集と意味は似ているが、「カッパを捕まえに行きます」は罠など仕掛けそうでなんだか物騒である。
 
 まぁなんと言ったところで、小首を傾げられることに変わりはないのかもしれないけれど。