「童貞の卒業」という現象に対するアプローチ

1.童貞における「童貞性」の定義

(1)「童貞」とは
 一般的に「童貞」と言われれば、未だセックスをしていない人、特に男性のことを指す。本来「童貞」とは性経験のないカトリックの修道女を指す言葉¹ であるが、処女という言葉が普及してきたこともあり、ここでは童貞=セックスをしたことのない男性という定義をする。
 また、ここでは「セックス」に対する定義も必要だと考える。「童貞」自体の定義にも、2章で言及するところの「童貞の喪失」にも、セックスが大きく関わってくるからだ。

(2)童貞の「童貞性」
 童貞と一口に言えど、素人(/玄人)童貞、ファッション童貞、セカンド童貞など、世の中には様々な種類の童貞がいる。ファッション童貞やセカンド童貞に関しては本来の童貞の定義に反する部分が大きすぎるために今回は考慮しないこととする。日本性教育協会の『青少年の性行動に関する調査結果について』によると、平成23年時点における男子大学生の性交経験率は54.5%、女子大学生は46.8%である。この数値だけ見ると「なんだよ男の方がセックスしてんじゃねーかよ」と思いかねないが、男女ともに調査開始からのピークである平成11年の数値と比べると、男子大学生は約8%ダウン、女子大学生は約4%ダウンとなっている。男子大学生の方が以前よりセックスしなくなっているのだ。それだけ大学生における童貞は増えている。そして私たちの周りにも、想像以上に童貞はたくさんいるのだ。いや、「いる」というのは正確な表現ではないだろう。私に言わせれば、童貞は「存在させられている」。
 セックスを体験していない人という意味だけでなく、童貞には往々にしてマイナスのイメージがつきまとう。女性慣れをしていない故に突飛な行動やスマートでない行動をとってしまいがちだ。また、対人関係においても、親しい関係になることに不安を抱えやすい傾向がある。また、服装や趣味なども所謂「イケてる」ものではないことが少なくない。自己肯定感も低く、他者(特に女性)のことを不安視・敵視してしまう人もいる² 。また、ホモソーシャル的な関わり合いがなくなってきているのも童貞の社会的地位の低下などに寄与していると言えよう。同性集団は性的な面でのフォローにも敏感であった。いわゆる「オナニーとは、セックスとは、なんぞや」とか「あの子とアイツがヤったらしい」などの話題も広く受け止めてくれる。心の不安をカミングアウトしたとしても受け止めてくれる同性集団は童貞をはじめとする性的弱者の避難所だ。性的弱者とは、往々にして性経験のない(少ない)者のことを指す言葉であるが、性的知識の乏しい者に対しても使っていい言葉であろう。
 このように現代における「童貞」は、様々な要素が絡みあいながら定義される。
 少し話がそれるが、現代では「コミュ障」という言葉も広く認知されている。コミュニケーション障害を省略して作られた語であるが、対人コミュニケーションで意思の疎通が図れないことはまた違う。軽度~重度の人見知りや吃音、相手のペースを考えず話したり、会話という行為自体に嫌な感情を抱いていたりと、コミュニケーションに関する不安を広く扱う言葉になっている。また、コミュ障を自称する人も多く、対人的なスキルの乏しさをざっくばらんに語るときの必須用語ともなっている。自称している人の多くは別段障害があるわけではない。(心のなかにハードルがないという意味ではなく。) コミュニケーション、特に対人でのやり取りに慣れがないのだ。もしくは特定の失敗経験から、コミュニケーションに対する不安感が根付いてしまったと考えられる。
 このような事態は童貞にも当てはまる。先ほど、童貞は自己肯定感が低いと書いたが、この影響がコミュニケーションや身だしなみなどに出てくる。そしてコミュニケーションの不慣れさ(決して「能力のなさ」ではない)や清潔感のなさから起こる対人関係での失敗は自己評価をさらに下げてしまう。この負の連鎖によって童貞は自身の童貞性をさらに顕著にしてしまうのだ。(負の童貞スパイラル)

(3)「セックス」について
 セックスという行為を定義する際に考慮されるべき要素は①性行為への同意の有無、②互いの性器への直接的刺激の有無³ 、③性行為の相互的認知、の3点が挙げられる。表1のように、3つの条件によって人がセックスに向かう状態はいくつかの種類にパターン分けされる。もちろん、これだけでないことは重々承知の上だが、条件に従い大きく分けるとこのようになる。第一に、同意がないものに関しては性暴力であろう。そして、性器への直接的刺激があるかどうか。キスしたことで勃起したからと言って、それがセックスとなるわけでないという予防線でもある。
 少し話は逸れるが、「セックス」と聞いて思い浮かべるものは何だろうか。挿入?愛撫?キス?ハグ?……そういったものはセックスにおけるいち要素にしか過ぎない。また、AV(アダルト・ビデオ)などの影響で、キスや愛撫、オーラルセックスに進んでいき、挿入して体位を変えながら最終的にどちらか(往々にして男性側)がイって終わり、のような「正しい手順」があると思っている童貞も相当数いるだろう。激しい手マンの方が気持ちいいんだろう…とか、大きいペニスの方がいいんだろう…とか、そういう偏った情報しか持たない童貞もたくさんいる。(童貞ではなくても多そうだが…。) そうなると、セックスがセックス足り得る最重要項目というのは何だろうか。それは③性行為の相互的認知だと考える。「セックスしたぞ!」という感じ。なんだか頭悪そうなので言い換えると「事後感」である。相手と精神的にも肉体的にも交わったんだ、という感覚である。ここで「セックスを定義するのにセックスの後のことを持ち出すのか?それはセックスの範囲外ではないのか?」と疑問に思う人も少なからずいると思うが、これが難しいところである。「セックスとはコミュニケーションである」というのはエライ人のよくある主張であるが、それを言うならセックスとは相互干渉的な認知行為とも言い換えることができる。この場合、互いに精神・肉体を干渉させ、それを認識し合うこと——「セックスした」ということを認知すること——が「セックス」であるというパラドックスが起こる。
 改めて表1を見てみよう。相互干渉的認知行為による「事後感」の発生という観点で見ると、セックスと呼べるのはパターン1のみということになる。しかし、パターン2~6もセックスの可能性を拭いきれない。7と8はなんというか…論外。

2.童貞性の「喪失」という現象

(1)セックスをすれば「童貞卒業」か
 童貞が非童貞になることに対してよく「卒業」という表現があてがわれる。童貞だった人生にオサラバ、めでたいことだ、のような感覚で使われることが多い。「卒業」はまた学校などで規定の課程を修了した者についても使われる語である。学校を卒業したものを非学生と呼ぶことはほとんど無いが、学校同様に童貞に対して求められている課程なんてものがあるのだろうか。……えっ、あるの?

(2)童貞の「喪失」で何が変わるのか
 童貞が非童貞になる過程で何が変わるのだろうか。学生が学校を卒業したからと言って、身体的に劇的な変化が現れることはまずない。例えば、学生が就職したことで起床時間が変わったり、服装や髪形が社会人らしくなったり、生きることや将来に対しての思考の変化はあるだろう。生活様式・行動様式の変化や意識改革が起きたと言える。仮に「童貞特有の思考」があるとすれば、そこからの脱却が「童貞喪失」と言ってもいいだろう。童貞が童貞性を失うことを具体的に示すとすれば、前述した童貞スパイラルからの脱却である。
 それはある種、コミュニケーションの型を得ることに近い。相手との間の詰め方、と言うと些か抽象的か。こうは言っても全般的なコミュニケーションに対して使える型があるわけではない。自分のなかで、コミュニケーションのパターンをいくつか作ればよい。そして練習しよう。身近な相手、親でも、友人でもいい。しかしインターネット上の文字だけのやり取りは危険だ。現実世界において誰かと対峙したときに重要になるのは応答速度だ。漫才師がボケから5秒遅れてツッコんでいたのでは話にならない。そして話し言葉と書き言葉では語彙力に差が出やすい。話し言葉では無意識的に、同音異義語をもつ語の使用を避ける傾向にある。「上梓」や「差異」などがその被害をよく被っているように思う。会話・応答において一定の型や使い慣れた語彙のあることは強みになる。まずはその型や語彙を磨き、練習していこう。少しでも手ごたえがあればそれでいいだろう。こうして僅かながらでも童貞スパイラルから脱却するのである。それが自己肯定感や自尊心の向上にもつながる。
 あとはよく観察することだ。自分を磨いて心に余裕ができたら、次は相手を見なければならない。会話は1人ではできない。自分を見てくれる相手のことも見てあげよう。相手の嬉々とした表情、戸惑いの表情、不満げな表情、全てをさりげなく観察するんだ。童貞が童貞たる所以は人の観察不足でもある。人の機微を見逃してしまうのだ。対峙している相手は多くのヒントをくれる。どのような返答が欲しいのか、または欲しくないのか。どれだけの間が要るのか。それらを手に入れるためにも人はよく観察しなければならない。
 私たちは童貞からの脱却のために非童貞の思考にアクセスしなければならない。しかし突然自分の全てをソレにシフトするのはとても難しいことでもある。焦らず、よく自分と相手を観察していこう。童貞を言い訳に相手に変化を強いてはならない。というか、それは不可能に近い。利己ではなく利他のスタンスを身に着けていくことが童貞を卒業するために必要なことだ。主観的ではなく、客観的に童貞を脱却していこう。

3.これからの社会における「童貞」

(1)童貞の社会的地位向上運動
 ホモソーシャル的なつながりがなくなってきていると述べたが、大学のサークル活動において「童貞連合」なる団体が多く発足されているのも事実だ。その童貞連合では、童貞の社会的地位向上や団体構成員の童貞脱却などが主な目標となっている場合が多い。童貞というだけで敬遠されることもあるこの世の中で、その属性をもってして社会運動をするというのは非常に労力を要する。ある種の反差別運動や解放運動と言えるだろう。人類皆元々は童貞なのだから、童貞を蔑視する理由なんてどこにもないのだ。

(2)童貞問題は性的闘争の最前線だ
 童貞の社会的地位が問題になる(問題視される)原因は非童貞にあると言っても過言ではない。非童貞は己の力によって自身の性的関係を築いたのだからそれは特段ずるいわけではない。しかしその性的強者であるが故に性的弱者(コミュニケーション弱者含む)を攻撃、または排除してしまいがちだ。そういう流れに抗うのが現代社会における童貞である。性的経験値の低さがその人の人格に直結してしまうような価値観を生み出すことは避けなければならない。性志向の違いによって差別されてはならないように、性経験の多少で差別されてはならない。経験の多さが良しとするような価値観は捨てなければならず、経験が多かろうと少なかろうと同じ人間としてよりよいコミュニケーションを図っていくべきである。性教協(一般社団法人 “人間と性”教育研究協議会)が掲げるような「性的自立と共生」⁴ は童貞も非童貞も心にとどめておくべきテーマでもある。相手のことを尊重したり、自立を目標に性に対して主体的なアプローチをしたりするのは私たちが童貞であるかどうかにかかわらず、一人の人間として、そして何らかの人間関係なしには生きられない現代社会に生きる人として気に留めておきたいことである。


脚注
¹ カトリック教会は婚前の性交渉に否定的であるが、夫婦間の「子孫を残すための」性交渉は尊重されるべきものとしている。性的快楽を求めるためだけの性交渉、つまり出産を考慮していない性交渉については教義の解釈をもって否定されている。
² レオン・フェスティンガーの「認知的不協和」である。『Aが手に入らないからAに価値がない』と考えてしまうような状態だ。
³ このように表記したのには理由がある。当初、「挿入の有無」という表現を使おうとしたのだが、男女のカップルだけではなく、どんな性の人に対しても適応できるような事項にしたかったため、③の条件も合わせ、上記のようになった。
⁴  性教協ホームページ、性教育のすすめ より

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